刀帳番号一六〇番の行方

 まためんばあが増えて嬉しいです、と満面の笑みを湛えて迎えたのはこの本丸の江唯一の脇差、篭手切江だ。
 村雲江が顕現した本丸には同じ江の刀が存在した。迎えてくれた篭手切を初め、同じ打刀である桑名江に松井江、そして五月雨江こと──『雨さん』がいた。
 本丸を束ねるのは聡明で年若い女性の審神者。彼女は新たにやってきた村雲を大いに歓迎した。得たばかりの肉体に慣れるまでは無理をしなくていいと気遣い、他の男士たちも皆優しく接してくれる。絵に書いたような平和で穏やかな本丸だった。
 ──たった一つの違和感を除いては。

「ねえ。この本丸ってもう一振いたのかな。江の刀」
「実は私も気になっていました」

 感じていた疑問を思い切って打ち明けてみれば、五月雨も同じ疑問を抱いていたようだ。
 刀剣男士一振ずつに割り当てられる部屋。その中で一六〇番の部屋だけが長らく不在であった。遠征で数日不在の刀は有れど、村雲が顕現されて一週間がすぎてもその部屋の主を見かけることは無かった。
 審神者が顕現していない刀の部屋は存在しない。つまり、その刀が本丸に存在していた事は確かだ。部屋に刻まれた紋の特徴から見ても恐らく江の者だろうと言う意見も五月雨と一致していた。

「やっぱ……触れちゃいけないやつかな。ほら、俺たちの身体って手入れすれば不死身だけどさ……」
「完全に折れてしまえば元には戻りませんからね」

 あけすけな五月雨の言葉に胃の腑がきゅっと傷んだ。かつて、五月雨がこの本丸に顕現されるよりも前にこの本丸で同胞が折れてしまったのか──なんて、古参の刀に聞く勇気は持ち合わせていない。
 まるで『開かずの間』のような、不在の刀の部屋の前で話し込んでいると、そこに現れたのは桑名だった。

「桑名さん」
「どうしたの?豊前の部屋の前で話し込んで」
「〝豊前〟?」
「……そっか。二人は顔を合わせたことなかったよね」

 ──豊前江。

 刀剣男士としての彼の姿を知らないが、同じ刀工が打った刀だ。その名には聞き覚えがある。開かずの間の主。不在の刀の名は禁句なのかと思っていたが、桑名がごく自然にその名を口にしている事にも驚いた。

「その方は、折れてしまわれたのですか?」
「ううん。豊前はね、折れたわけじゃないよ」
「では、何処へ?」
「姿形は見えなくても、豊前はこの本丸に居る。だから、心配しなくてもいいよ」

 落ち着いた様子でそう口にする桑名の言葉に、五月雨と村雲はますます眉間に皺を寄せて首を傾げた。



 一見何の変哲もない壁を押すと、隠し扉が開かれ地下に繋がる階段が顔を出す。
 地下空間には地上の本丸とほぼ同じ間取りの空間が広がっている。有事の際には本丸の刀剣男士達が全員避難しても十分に収まる造りだ。景趣を変えてしまえば地上と変わりない光景だが、人気がなくしんと静まり返っている。
 この場所を訪れる度に審神者になりたての頃の、一振の刀と広大な本丸を与えられた時の光景を思い出す。
 地下は地上の本丸同様、薄暗い夜の闇に包まれていた。提灯の明かりを灯しながらギシギシと悲鳴をあげる木製の階段を降りて、誰も居ない廊下を歩く。朧月の淡い光に照らされた庭。その縁側で月を眺める一振の刀が居た。

「よぉ、主。来たのか」

 陽の光が届かない地下空間だと言うのに、真夏の太陽のような明るい笑顔を見せる。審神者はそんな豊前に近付いて、何も言わず抱き締める。豊前も彼女に答えるように自分の胸の中に収めた。

「どーした。またなんかあったのか?」

 豊前は審神者の頭を撫でながら、絡まった髪を梳く。審神者は豊前の腕の中で口を噤んだまま、沈黙していた。
 先日は新しく配属された担当職員と折り合いが悪く口論になったのだと聞かされたばかりだ。また地上で何かあったのだろうか。豊前が尋ねるよりも先に審神者が口を開いた。

「少し前になるけど、江の刀が増えたよ」
「へえ、そーなのか。良かったな」
「……外に出たくなった?」

 審神者の問いに、豊前は紅の瞳を伏せてゆっくりと首を横に振った。 穏やかな眼差しの豊前とは対照的に、審神者の表情は曇ってゆく。

「ごめんなさい。あなたの自由を奪ったのは、私なのに」
「なんだよ。謝ることないだろ?」

 目を逸らして、謝罪の言葉を呟く。罪悪感に押し潰されそうな表情の審神者を、なんでもない事のように笑い飛ばしながら額を小突いた。
 何も言わなくなってしまった審神者の身体をひょいと持ち上げて誰も居ない廊下を歩く。

 あくまで非常用でしかない地下室に設けられた寝所は、地上に比べれば殺風景だ。
 生活感のない部屋の中に存在する寝台の上に主の身体を降ろすと、すぐに安らかな寝息を立てはじめる。そんな審神者のやわらかな頬を撫でる。
 地上の寝所では眠れないと零していた審神者は、この地下でなければ十分な睡眠を取れないようだ。
 審神者が眠りにつくまで側にいて、夜が明ける前に地上へ送り届ける。それがこの本丸における豊前江の役割になっていた。

◇ ◇ ◇

 不意打ちだった。
 慶長の年、信濃上田城での戦闘。敵の銃兵の弾が俺の胸部を貫通した。人間であれば即死の位置だ。撃たれた場所から大袈裟な程の血が噴き出して、咳き込むと大量の血が口から流れた。
 傷穴を中心に肉体の感覚が消えてゆく。意識すらも遠のいて、ぱきぱきと耳の奥で不気味な音がする。紛れもなくそれは破壊の音。人間でいう所の『死』だ。
 視界に映し出されたのは、一面の白。
 世界の全てが静止したような──無の世界。

(これが、向こう側なのか──)

 ずっと辿り着きたかったような、その場所へ。
 眩い光の中へと誘われるその瞬間、よく知った気配に引き留められる。
 戦場では感じるはずのない審神者の匂い。その正体は、出陣前に持たされた御守だった。

「豊前!!!」

 地面に倒れ込む瞬間、駆け付けた薬研が小さな身体で俺の身体を支える。
 気が付けばあの不快な音は止んで、胸部から噴き出していた血は止まっていた。

「危なかったな」
「ああ……助かった……」

 血が染み込んだシャツに空いた空洞を指でなぞる。皮膚も内臓も何事も無かったかのように塞がったことを確認して、胸ポケットに入っていた御守を手に取る。役目を果たし終えたそれは砂状になり風に消えた。
 戦場から引き上げて帰還すると、主はいつものように時空転移装置の前に立っていた。手際よく指示し、負傷した男士の対応に回る。刀剣男士が重傷を負うことなど最早珍しい事ではない。狼狽えるような素振りは見せない主だが、その表情はいつになく険しく、鬼気迫るものだった。


 
「主の様子がおかしい?」

 異変を知らされたのは、それから三日後の事だ。朝一番に部屋を尋ねてきた薬研は躊躇いがちに話を続けた。
 あの日。俺が折れかけて、部隊が深手を負い帰還した日から誰かが話しかけても心ここに在らずだという。それが日を追う事に悪化し、今では誰の言葉も主には届かず、飲まず食わずで部屋に閉じ籠っている状態らしい。
 この三日間、妙に避けられている気がしていた。『都合が悪い』と知らせられ、顔を合わせなかったのはこのせいだったのか、と合点がいった。
 薬研の知らせを受けて間もなく、身支度を整えて本丸の中央にある審神者の居室を尋ねる。そこには、柱に背を預けてぼんやりと庭を眺める主の姿があった。

「…………」

 名を呼んでも一向にこちらを見ようともしない。どんよりとした空模様の下、赤く色付いた木々に雨が降り注いでいた。
 長い間泣いていたのか、彼女の目は赤く憔悴しきっている。覇気がなく、普段はきっちりと整えられた髪も床に散らばり、すっかり幽鬼のような姿に変わり果てていた。
 よく見ると彼女の両手は専用の拘束具によって動くことを封じられている。  物々しいその光景に薬研の言葉が脳裏に過ぎる。
 あの日からずっと、己を責め続けているのだ。俺を失いかけた事に。
 両手の拘束具は自傷の傾向が見られる為の措置らしい。彼女の首には強い力で掻き毟ったような蚯蚓脹れが存在していた。
 主が──恋人が、ここまで気を病んでいた事に気付けなかった己を恨んだ。

「なあ、。部隊は無事帰還できたんだ。俺も御守のおかげで主の元に帰って来れた。感謝してるよ」
「……豊前」

 ようやく口を開き、微かに呟く主の声は震えていた。視線を逸らしたまま俯いて唇を噛む。

「私、……もう、嫌。あんな思いするの……」

 何かを思い出したのか、青ざめた様子で身体を震わせる。異変を察した俺は彼女の傍に寄って肩を抱いた。

『三日も黙っていて悪かったな。大将は豊前が折れかけた姿を見て、だいぶ応えてるみたいなんだ。だから、なんとか励ましてやってくんねーか』

 薬研の言葉を思い返し、思いつく限りの主を安心させられるような言葉を紡ごうとした。
 しかし、いくら考えても上手い言葉は浮かんでこない。
 ──あの瞬間。
 この肉体が粉々に砕けゆく姿をは見ていたのだ。
 御守の効力によって肉体はすぐに修復されはしたが、俺の死に様を目の当たりにして衝撃を受けたのだろう。
 あの時、誘われるがままに向こう側へ行こうとした俺を──主は恨んでいるのだろうか。

「見苦しい所、見せちまったよな」

 彼女は首を横に振って、ようやく顔を上げた。

「私、自分が死ぬのは怖くない。でも……豊前が居なくなるのが、いちばん怖い」

 眦に大粒の涙を溜めながら、真っ直ぐに向けられたその瞳に──俺は、興奮を覚えた。

「約束して。どこにも行かないって。私の傍から離れないって」

 そこに、聡明で美しい審神者の姿はなかった。
 俺を見つめる眼差しはまるで、幼い子供が駄々を捏ねるような剥き出しの独占欲だ。
 痛々しい拘束具を外して彼女の両手を握りながら、唯一無二の存在である主の願いを聞き入れる。

「ああ……。約束するよ」

 献身的に主を宥める従者の振りをしながら、腹の奥底では高揚感を覚えていた。
 あのまま御守りが無く俺が失われていたならば、は今以上に廃人同然の姿になっていたに違いない。
 嘆かわしい事なのに──気を病むほどに俺の存在を求める主の姿に、不謹慎にも身が震える程の悦びを抱いていた。
 人の為に作られた存在にこれ以上の幸福があるだろうか。

 それから。は俺を失うことを酷く恐れ、本丸の地下深くに閉じ込める事にした。
 刀剣男士として戦の一線から遠ざかる事に抵抗はあったが、物置に保管される事には慣れているから何も苦痛ではなかった。
 それに、は毎夜俺の元に足を運び、心から俺の存在を求めてくれる。
 俺もまた、俺なしでは生きていけないを愛している。  きっと、この本丸で一番幸せな刀に違いない。


 刀帳番号一六〇番の刀は、確かに存在している。
 後にやってきた刀はその姿を誰も見た事がないという、まるでお化けのような刀だ。
 大切に仕舞われたその刀は誰の目にも触れることは無く、持ち主だけがその在処を知っている。

20230310