何もかも終わった話

 ──長い夢を見ていた気がする。

 目を覚ますと私は窮屈な箱の中にいた。
 時計を見れば夕方の六時前。あちらこちらから人々の話し声が聞こえる。
 帰りの電車に揺られながら、ほんの少しの間眠っていたらしい。
 社会復帰してから一ヶ月が経過しようとしていた。失敗ばかりでまるで使い物にならない。そんな自分に嫌気がさして、ついため息が漏れる。言い訳などしたくはないけれど、私は義務教育後から戦争が終わるまでの記憶がぽっかりと抜け落ちている。いわゆる浦島太郎状態だ。
 そんな境遇が噂となり、周りの人々に遠巻きにされていて余計な心労が絶えない。今はただ唐突に目の前に現れた『未来』に必死についていくしかない。そんな毎日を送っている。
 戦争が終結して半年が過ぎた。戦中、自分がどこで何をしていたか――。それを思い出すことは出来ない。どんな役職で、どんな任務にあたっていたかすらも。
 半年前のある朝、私はまっさらな病室の中で目が覚めた。物々しい装置に囲まれたベッドの上で、身体は怪我ひとつなく頗る元気だった。
 長い夢を見ていた気がするけれど、夢の内容は何一つ思い出せない。後に医師に手渡された一枚の紙きれが、その理由を教えてくれた。

『任務に関わる一切の記憶を消去する事に同意する』

 この書面にサインされているのは、見慣れた筆跡で書かれた私の名前だ。
 わざわざ人の記憶を消さなければならない程の、秘匿された重要な任務だったのだろう。
 政府による戦後の支援も手厚く、社会復帰に向けてのリハビリ期間を経て、就職する事が出来たことは幸いだった。
『戦の記憶なんて無い方がいい』
 たまたま居合わせた同じ境遇の人は、そう口にしていた。
 先日出来たばかりの戦没者慰霊碑には名前の代わりに数字が連なっている。それらの番号はかつての同僚で、もしかしたら友人で、一歩間違えば私はここにいたのだろう。どんな最期を迎えたのか、想像すら出来ない。あの人の言う通り、わからないままの方が幸せなのかもしれない、と考えては罪悪感が過ぎった。
 私の手に残ったのは、身に覚えのない功績を称える勲章と平和な日常。それだけで充分なのに、何かが欠けているような違和感がある。

「うみー!」

 車内に響いた、幼い子供の声。
 つられて後ろを振り向けば、車窓の向こうで一面に広がる海面が夕陽を浴びてきらきらと輝いていた。
 通勤途中にこんな景色があるだなんて知らなかった。子供の声が聞こえなければ気が付かないままだったかもしれない。
 思えば近頃はずっと俯いてばかりだったから見落としていたのだろう。
 ──心が洗われるような、きれいな景色。
 それと同時に脳裏に過ぎる誰かの面影と、ノイズ。

(……まただ)

 いつか、誰かと似たような景色を見た気がする。海だけではない。それは山だったり、春にしか見られない桜雲の彩り。夏の海、秋の紅葉の、赤。
 四季折々の絶景や、何気ない日常の風景。
 様々な景色の中には必ず『誰か』が居る。
 その『誰か』には顔や姿には黒い靄がかかっていて、それ以上思い出すことは出来ない。けれどその人は、確かに私の隣にいて、確かに笑っていたのだ。

「……… …」

 名前を呼べば思い出せるかもしれない。
 そう思って口を開いてはみたけれど、なんの音も響かなくて、ただ虚しいだけだった。

(誰なんだろう)

 ぽつり、と膝の上に水滴が零れる。
 それが雨粒などではなく、自分が大粒の涙を零していることに気が付くまでだいぶ時間がかかった。戦争の記憶は半年前に受けた手術により私の脳から消去されたはずだ。それでも心と身体はしっかりと覚えていて、全身の細胞が必死になって叫んでいる。
 ──逢いたい。
 ──誰に?
 何も思い出せないのに、どうしてこんなにも胸が苦しいのだろう。どれだけ願っても、その人にはもう二度と逢えない。それだけは理解しているからこそ溢れ出してしまうのだろうか。
 人目をはばからず滂沱の涙を流していると、目の前に何かを突き出された。

「……」

 顔を上げれば、吊革に掴まる成人男性が私にハンカチを差出している。
 キャップと黒いマスクのせいで顔はよく見えないが、ライダースジャケットを着た、背が高くてスラッとした体格の青年だ。電車内の公衆の面前で成人女性がボロボロ泣いているのは異様な光景だっただろう。

「あ……。ありがとうございます」

 男性はただ頷くと、降車駅に着いてすぐに降りていってしまった。まるで、するりと逃げて行くような早足で。世の中には優しい人が居るものだ。見知らぬ人の親切が、滅入っていた心にじわりと染みわたる。
 ハンカチを目元に当てると、懐かしいにおいがした。ほのかに機械油と男性用整髪料が混ざったような香り。馴染みなんてないはずなのに。どうしてそう思えるのだろう。
 ──私は、あの人を知っている。
 根拠のない確信だった。
 恐らくこの瞬間を逃したら二度と逢えない。
 そんな存在なのだ、彼は。
 すぐさま立ち上がって降車すると、ただ一心不乱にその人を追いかけた。

「待って!」

 人の波を掻き分けて、見知らぬ男性を呼ぶだなんて。大胆な行動に自分が一番驚いている。他人の目なんて今はどうだっていい。
 二度目はない──そんな気がしてならないから。
 男性は私の声に気が付くと、ピタリと足を止めて振り向きざまにマスクを外した。

「……なんだ。憶えててくれたのか?」

 その声を聞いた途端、膝から崩れ落ちそうになった。
 キャップを外せば、真ん中分けの少し癖のある黒髪。形の良い眉ときりっとした目元に、燃えるような赤い瞳。赤の他人に呼び止められたというのに驚く様子はなく、ただ穏やかに目を細めていた。
 一度見れば忘れられそうもない、華やかな顔立ちだというのに──やっぱり『わからない』。
 本人を目の前にしても、顔も名前も、何一つ浮かんでこない事に絶望した。赤の他人を呼び付けておいて、なんて失礼な行動を取っているのだろうと青ざめた。

「つっても、わっかんねーよなぁ。ははっ」

 男性は顔面蒼白のまま固まる私を笑い飛ばした。
 思い出せない事など、想定の範囲内であったかのように。

「いいよ、それでも。俺を呼んでくれただけで充分だ」

 発車と同時に、ホームに生ぬるい風が吹き抜けた。

「……どーした? 難しい顔して」
「何もかもわからないけど、もう逢えないはずなのに、なんでここに居るのかが一番わからない……」

 今起きてる事がとにかく非現実的だと言うことはわかる。まるで宇宙人か、お化けを捕まえてしまったかのようだ。何故そう思うのかも理解不能で、様々な感情が入り乱れた頭はパンク寸前だ。こういうのを狐につままれた気分と言うのだろうか。

「なんでってそりゃ、あんたが俺を見つけてくれたからだろ?」
「う、うん……?」

 まるで説明になっていないのについ頷いてしまった。彼の顔色はどこか嬉しそうで、そんな表情を見るだけで心が落ち着いてしまう。

「……泣かんでよ。もう戦は終わったんやけ、な?」

 掠れた声色の懐かしい方言が耳元に響く。
 ──あぁ、この笑顔だ。
 ずっと欠けていたパズルのピースが揃った。そんな感覚がした。握ったままのハンカチを手に取ると、涙に濡れる私の顔をごしごしと拭いた。化粧などとっくの昔に崩れてしまっているだろうが、後で鏡を見るのが恐ろしい。そんな事もお構いなしだ。

「あんたが、俺をここに連れてきてくれたんだよ」
「そう、なの……?」
「おう。お化けじゃねぇぜ。ちゃんと足もあるよ。こうして触れられるしな」

 頬に触れるてのひらから体温が伝わる。
 温もりを感じられた事に安堵して、また目頭が熱くなる。しばらく涙はおさまりそうにはない。
 彼が隣で笑っている。これから先も、ずっと。

20210405