窮地

 視界を覆い尽くすような薄紅色の桜吹雪。
 その向こう側で、見覚えのある景色が広がっていた。
 人がいない、だだっ広い本丸。
 真新しい建物にちょこんと座る、見るからに怪しげな管狐クダギツネ
 それは私が審神者となった日の光景だった。
 初めはたった一振の刀。
 それから、たくさんの仲間を得て、本丸は家族と言って等しい存在となった。戦いの最中とはわかっていても。いつか終戦を迎えて、離れ離れになってしまうとしても。
 何にも代えがたい大切な場所。
 それを失ったら、私には何もないから。
 ──それにしても、どうしてこんな夢を見るのだろう。
 まるで走馬灯そうまとうのような、と言ったら不謹慎だろうか。


!!!」

 怒声に似た呼び声だった。
 まるで平手打ちされたかのような衝撃と共にぱちりと瞼を開く。ぼんやりとした景色の中に、豊前江の顔がある。見開かれた赤い瞳。くっきりとした目鼻立ち。普段誰に対しても人懐こい笑みを浮かべる豊前の表情は緊張感が漂っていた。

「ぶぜん……?」

 それにしても暗い朝だ、と思った。[V:8203]
 ──否、ここは本丸の自室ではない。
 なにかが焼き付いたような、焦げ臭いにおいが鼻をついて、非常事態だという事を察した。匂いだけではない。ぞくりとする嫌な空気は建物全体に漂っている気がした。
 起き上がろうとしても身体が思うように動かない。周りを見渡せば剥き出しのコンクリートの壁。ひやりとする床。積み上げられた机と椅子と備品の数々。昼か夜かさえもわからない薄暗い部屋の一室。
 どこかの公共施設の中のようだが、薄暗くて視界が悪い。頭がズキズキと傷んで、どうしてこの場所に居るのかも思い出せない。

「やっっと、起きた……」

 私の意識がはっきりした事を確認すると、強ばっていた肩の力が抜けていくようだった。
 よく見ると豊前の戦装束も装備もボロボロだ。体力、疲労状態はいずれも中程度。もしも出陣中であれば本丸へと引き返しただろう。
 いったい何が、と思ったところで自分が身に付けている制服も同様に煤だらけなので人の事は言えなかった。
 審神者用に支給された制服を身に付けているということは。
(そうだ、今日は豊前と……)
 少しづつ記憶が蘇ってきた。
 今日は近侍とともに会議に出席するはずだった。
 一施設にたくさん集まれば時間遡行軍に狙われるため、審神者が多く集まる会場は地方の各地に分散されている。この状況から見て、私が訪れた場所は運悪く敵の襲撃に遭ってしまったらしい。

「爆弾が仕掛けてあったんだ。今は建物ごと乗っ取られたみてーだな」

 豊前曰く、建物に仕掛けられた爆弾が爆発して、パニックになった会場に時間遡行軍が押し寄せてきたという。豊前は最初の爆発で気を失った私を抱えて、下の階にある人気のない倉庫まで運んでくれたらしい。
 爆発が起きた時、場所が違えば死んでいたかもしれない。遡行軍の審神者への憎悪を感じて、背筋が冷えた。
 制服のポケットに手を伸ばし、審神者用の連絡用端末を見ても電波が妨害されているのか使い物にはならない。
(困った……)
 他の審神者や刀剣男士は無事だろうか。
 もしも、狙われたのがここだけではなく同時多発的なものであれば被害は甚大なのではないか。
 最悪の事態を想像して指先が震えてくる。

「主、心配なのはわかっけど、今は自分の事だけ考えてくれ」

 いつになく真剣な眼差しで私に訴える。
 豊前の言う通りで、ここで自分が狼狽えていたって、何の解決にもならない。
(しっかりしなきゃ……)
 私は豊前の主なのだから、動揺している場合ではない。今の敵の狙いは歴史改変ではなく、それを阻止しようとする審神者の首だ。
 その時、微かに金属音がした。
 重なり合うようなその音は、鎧の音だ。
 時間遡行軍の気配が次第に近付いて、とうとう扉の前で止まる。
 豊前は私を死角へと押しやると、刀を抜いて扉の傍で待ち構える。
 ───ギィィ。
 扉が開かれると、現れたのは脇差の時間遡行軍だった。
 私はこれまで直接敵と対峙したことは無い。遠目から確認する程度だった敵が、自分の命を狙っているのだと思うと恐怖で震えそうになる。
 刀剣男士を各時代に送り、戦わせているのは自分だと言うのになんて情けないのだろう。
 目覚めた時から感じていた嫌な空気の根源は時間遡行軍が放つものだ。濃度が高まって吐き気すら催すような濁った空気。禍々しい気配と殺気。その怒りの矛先は審神者に向けられている。

「っおらぁ!」

 待ち構えていた豊前は背後から刀を突き刺す。しかし遡行軍の動きの方が早く、切っ先が豊前の額をかすめた。

「ちっ……」

 狭い室内戦では、打刀よりも脇差や短刀の方が有利だろう。なんて考えたところでどうにか出来るわけではない。ぱた、と床に赤い液体が滴り落ちる。豊前の額から血がどくどくと流れ出て、顔面を赤く染めた。
 両者睨み合いの膠着状態が続く。
 もしも敵に応援を呼ばれれば不利だ。
 ──何かで気を逸らせないだろうか。
 一か八か、私は履いていたパンプスを敵の方向に投げ付けた。それは遡行軍を掠めて壁に当たり、注意を引き付けた。豊前はその隙を狙って、胴体目掛けて刀を突き刺す。時間遡行軍の身体はパキパキと音を立てて崩れ、やがて砂状になって消えた。

「……っ。悪ぃな。ちっとしくじった」

 すぐに豊前の元に走り、ハンカチで額の傷を拭った。けれど、血はとめどなく流れ続けている。
 ハンカチで止血したものの、疲労が溜まっている今の状態では次に攻撃を受けたときに重傷になりかねない。
 もしも豊前が破壊されたら――。
 そんなマイナスな事ばかりを考えてしまう自分が嫌だ。兵糧があればまだ凌げたかもしれないが、刀剣男士の傷は自然治癒される事は無い。
 彼らは刀故に、人に手入れされなければずっと傷を負ったままなのだ。とはいえこんな場所に手入れ部屋があるわけは無い。

「俺の事は、いーって。人が刀を庇ってどうすんだよ。使い物にならなくなったら捨て置いてくれ。じゃねーと許さねぇからな……」

 いつにも増して刺々しい口調で私に諭した。
 豊前の言っていることは正しい。
 それが悲しかった。
 ──私に出来ることは何も無いのだろうか。
 主と敬われたって結局刀剣男士の力を借りなければ無力なのだ。悔しさで、やりきれない。刀が人を守るために作られたものだとしても、私は豊前を失いたくはない。
 ふと思い浮かんだのは審神者の──自分の霊力だった。

「豊前」
「なんだ」

 真剣な眼差しを向ける、間近で見る豊前の顔に気圧されそうになる。そんな事を言っている場合じゃないのは重々承知だけれども。

「今からやるのは、えと、治療だから。……あまり深く考えないで欲しいんだけど……」
「? 何をごちゃごちゃ言ってっかわかんねー」

 状況が状況だけに苛立ちつつある豊前の紐を引っ張って、強引に唇を重ねた。
 経口での霊力供給。傍から見ればキス以外のなにものではないが、今はこの方法に縋るしか無い。

「…………」

 唇を離すと、豊前は呆然としたまま微動だにしなかった。額の傷がすうっと塞がって、霊力供給の効果が現れた事に安堵した。もしも効果が無ければセクハラ上司以外の何物でもない行動だろう。しかもこんな非常事態にだ。

「治った……。あはは、良かった……」

 豊前の傷が治った事に安堵して──そして、目眩がする。私の体力もそれほど無く、霊力を分け与えたら無くなるのは当然だ。けれど豊前を置き去りになんて出来ない。きっと、この状況を切り抜けてくれると信じている。

「やけん、言うたやろ……自分の事だけ考えろって。残りの力使いやがって」

 豊前は私の身体を抱き留めてそう口にした。

「……ごめん、でもまだ、自分の身は守れる、から……」

 言ったそばから、と豊前は怒りを露わにして語気を強める。でも、何を言われようと霊力を分けたことに悔いはない。豊前を置いていけばきっと一生後悔するだろうから。

「……ったく。死んだら一生許さねーからな……!」


◇◇◇


 時間遡行軍が審神者の抹殺を目的とした襲撃事件は、死者数十名という大惨事だった。
 あれから私と豊前は施設の部屋を転々とし、身を隠しながら戦闘を切り抜けた。それから、応援に駆けつけた他の本丸の刀剣男士によって救助された。
 保護された途端私は力が抜けてしまい、それからの記憶があまりない。すぐに病院に運ばれて、目を覚ませば二日後の昼になっていた。豊前のおかげで目立った怪我はないが、爆発の衝撃によるむち打ちのような症状が続いている。
 この事件は全本丸の審神者に衝撃を与えた。
 現場に居合わせ、生き残った私は政府の病院に入院となったが、豊前共々政府による聴取にしばらくの間付き合う事となった。

「本丸に帰りたいなぁ……」

 政府附属の病院は殺風景でなにもかもが味気ない。本丸に帰って、光忠の料理が食べたいし、小豆のすいーつもたくさん食べたい。とにかく家庭の味に飢えている。そんな不満を毎日見舞ってくれる豊前に零すと、あんたは食べる事しか頭にねーのかと呆れられてしまった。

「……怖くねーのか」
「え?」
「こないだみてーな事がまた起きるかもしんねぇだろ。今回はたまたま生き延びた。次は犠牲者になるかもしれない。それでもあんたは、これから先も審神者を続けるのか?」
「続けるよ」

 豊前の質問に、私は間髪入れずに答えた。危険な仕事だとは重々理解している。恐らく今回の件で辞職する審神者も少なくないだろう。
 今私が辞めたら死んでいった仲間の審神者に顔向けが出来ない。元より覚悟を決めて戦に加わった身だ。それに私の居場所は本丸しかない。だから『辞める』という選択肢は無かった。
 豊前はなにか言いたそうに俯いた。

「豊前は反対?」
「『 主を死なせたくねー』って思うのは武器である刀の本能だ。……けど、がそう決めたんなら、俺はついていくしかねぇだろ」

 どこか苦々しい表情は、全て納得したわけではないようだ。

「……ありがとう」

 礼を言っても目を合わせてはくれなかった。私が豊前の立場なら、言う事聞かない主に怒るのも無理はないかもしれない。
 豊前が守ってくれるから、私も豊前を守りたくなる。この思いはずっと変わらないと思う。
 豊前は目を伏せたまま、言いづらそうに口を開く。

「……黙ってるのも後ろめたいから、正直に言う。……あの時、霊力と一緒に色々流れ込んできたんだよ」
「色々?」
「あんたの考えてること」
「…………!」
「本当は相当怖がってたことも、俺の顔がどうのこうの……」
「ひっ……! 待って。嘘でしょ」

 突然の豊前の告白に頭の中がパニックになって、顔が熱くなる。バレバレだったかもしれないけれど、一応主として怯えや恐怖心を隠していたつもりだったのに。あと豊前に対する邪な感情も。

「ふぁーすときす? とか」

 失神しそうになった。いちばん知られたくないことまで筒抜けだったなんて。ぐるりと豊前といる方向とは真逆の方向に首を回す。

「……わすれて」

 まさか、霊力供給にそんな副作用があるなんて知らなかった。そんな事知ってたら──けれど、あの時豊前の傷を塞ぐにはその方法しか無かったのだ。
 穴があったら入りたい。
 ベッドの下にでも隠れたい。

「なあ。まだ話あんだけど」
「無理!!!面会謝絶する」

 もう二度と豊前の顔をまともに見られない。
 私は布団で顔を隠し、ベッドの中に潜り込んだ。
 あの時私はどんな事考えていただろうか。思い起こして変な汗が止まらない。それでも豊前は構わず話を続けた。

「何もないなんて事はねーよ。生きてりゃ可能性は無限大ってやつだろ?」
「ちょっと勝手に人の心読むの本気でやめて」
「……まあ、これじゃ公平じゃねぇよな?」

 ──公平?
 いったい何のことを言っているのだろう。
 長い沈黙が続いて、恐る恐る布団から顔を出すと、唐突に豊前の顔が近づいた。そのまま、流されるままに唇を奪われてしまった。

「!」

 あの時、私が豊前にそうしたように。流し込まれているのは、豊前の霊力だ。新緑の風のように爽やかで、ほんの少し刺激もあるけれど優しい気。霊力を送られたぶんを返す、という意味のキス……とは違うらしい。

「たとえあんたが審神者じゃなくなっても、守りたいと思うよ」


リクエスト:『審神者を守る豊前』ありがとうございました。

2021320