甘いのは

 また凄い刀が来たなぁ。──なんて言う感想を抱くのは何度目だろうか。
 目の前に立つ長身の男士を見上げた。
 先の出陣で入手した実休光忠。
 同じ光忠の刀と言うだけあって、本丸の古株である燭台切と雰囲気によく似ていた。烏の濡れ羽色の髪の先端は白く色味が抜けている。長い前髪から覗く藤色の瞳は穏やかで落ち着いた雰囲気を醸し出している。そして目立つのは顔の大部分を覆う傷。傍から見れば厳つい印象を受けるが真逆の性格の持ち主のようだ。

「肉体を得たばかりで不慣れで大変でしょうけど、周囲の男士や私を頼ってね」
「あぁ」

 見てくれは成人男性だが、にこりと微笑む表情はあどけない少年のよう。性根が素直な性格なのだろう。この国の歴史を語る上で最も高名な天下人、織田信長の刀と聞いてほんの少し身構えていたが要らない心配だったようだ。
 ──それにしても。

「いい香りがする……」

 長船の刀は皆そうなのだろうか。ほかの刀剣男士とは一味違う、ラグジュアリーな香り。実際には香りではなく霊力の特徴を香りとして認識しているのだとこんのすけが言っていた。
 実休光忠からは色濃く香るような気がして、気が付けば思わずつい口に出してしまった。

「それは、君からじゃない?」

 気付けば実休光忠は私の前に立ちはだかり、頭を顔の真横に寄せる。
 それから、すんと一呼吸した。

「ほら、甘い」

 互いの頬が触れるか触れないかの距離。思わぬ行動にしばらく硬直していると、床に誰かの人影が映った。

「主」

 背後を振り向くと、執務室の入口に立っていたのは豊前江だった。
 遠征任務で出払っていた部隊がちょうど帰還したのだろう。戦闘服姿のまま呆然と立ち尽くしているように見えた。
 恋刀こいびとに、あまり見られたくない場面を見られてしまった。そんな気不味さを抱えながら実休光忠と密着していた身体を離す。

「ああ。新しい刀か。俺は豊前江だ。よろしくな」

 第一声は、普段と何一つ変わらない笑顔のままの、快活な挨拶だった。

「取り込み中悪いな。ちっと主に用があるから、借りるな」

 豊前は実休光忠から遠ざけるように私の手を握り、強引に執務室から連れ出した。初夏の日差しが降り注ぐ廊下を、急ぎ足でずんずんと突き進む背中を追う。
 ――いったいなんの用だろうか。
 何も言わない豊前に一抹の不安を覚える。
 とうとう何も言わないまま、人気のない廊下の突き当たりにまで辿り着いていた。

「ねえ、豊前」

 私の呼び声に振り向く彼の表情は口を固く引き結んでいる。
 先程実休との挨拶で見せた明るい笑顔とは真逆の態度で、俯きながら両肩を掴まれた。

が審神者で、『皆の大切な主』なのはわかってっけど。……そこまで許すのか?」

 いつしか豊前は悲痛な面持ちに変わっていた。
 ――『許す』とは、私の体臭を嗅がれた事だろうか。
 確かに親しい男女間でしか行われないだろうが、相手は肉体を得て一時間も満たない刀剣男士なのだ。人との距離感がわからないのは仕方ない気がする。

「あれはね」
「きす、されてただろ」
「え?」

 思い浮かぶのは先程豊前がいた角度から見える、私と実休光忠の体勢。
 あんなに近距離に居たのだ。口付けされたと誤解されてもおかしくは無い。よりによって豊前に見られるとは思わなかったけれど。

「してないよ」

 正直に答えたところでそう簡単に疑いが晴れる気配は無さそうだ。信じてもらえないのは少し傷つくけれど、確かにキスと疑われても仕方がない距離だったという負い目がある。

「あの距離で、か?」
「そもそも私が実休に『いい匂いがする』って言ったから私も嗅がれただけなの。『甘い』って」

 誤魔化す事無く素直に話すと豊前はまた口を噤んだ。
 紅い瞳の中に映る、燃え盛るような嫉妬の感情。
 恋仲になって数年が経つが、本丸に新しい仲間が増える度にその嫉妬は激しさを増している気はしていた。けれど、ここまで露骨に態度に出すのは初めてのことだ。
 グローブを外して素手になると、豊前の親指が私の唇に触れる。

「本当にされてねーだろうな」
「豊前以外の刀にされたら、さすがにもっと取り乱すよ」

 今は日中。仕事の真っ最中だ。
 執務室に実休光忠を置き去りにしたまま放置しているし、豊前も遠征から帰還したばかりで疲労しているというのに、こんな所で逢瀬を重ねている暇はない事はお互い理解している。

「落ち着いて、豊前」

 唇に触れていた腕に手を添えると、豊前は渋々手を離してその場に跪く。
 私を見上げる顔はまだ不服そうな面持ちのまま。
 けれど、豊前だって本当は気付いているはずだ。顕現したばかりの男士が私に口付けなどしていないという事実に。そんな彼の眉間の皺をひと撫でした。

「仕事に戻ろうね」

 豊前の行動を諫めるようにその言葉を告げて、身体を離そうとしたその瞬間、豊前の両腕が私の身体を捕らえた。

「……?!」

 跪いたまま力強く身体を抱き締められて、強引に唇を奪われる。

「豊前……っ」

 じゃれあいながら口付けするような、優しいキスとは程遠い。
 舌先を吸われ、絡ませられて、熱を持った舌が口内を犯される。
 呼吸すらまともに出来ないくらいの激しい接吻に呼吸の仕方を忘れてしまう。息継ぎの合間に漏れる、豊前の吐息が艶かしい。

「……“相性の良い”相手との口吸いきすは味を感じるんだってな?」

 立ち上がると、突き当たりの壁に身体を追いやられて両腕を掴まれる。逃げ場を塞がれ、再び口付けられて、今度は味わい尽くすように蹂躙していく。
 人気が少ないとはいえ、いつ誰が通りかかっても不思議ではない場所。壁を挟んだ庭から刀剣男士たちの談笑が響く。――こんな場所で。
 身体を離そうとすればするほどに、豊前の腕はますます力を込めて私を離さない。次第に頭の奥がぼんやりして、このまま魂ごと引き摺り堕とされていくような感覚に陥った。

「っはあ、っ…はぁ……っ」

 ようやく唇を離すと、お互いの混ざりあった唾液がだらしなく垂れる。すっかり腰の力が抜けて立てなくなった私を支えながら唇を耳に寄せる。

「ほーと『甘い』けねぇ……」

 低く掠れた声色と微かな笑い声に無意識に身体がビクリと反応する。

「この味を知るのは、俺だけだよな?」

 額に汗を滲ませた、乱れた黒髪。
 燃えるように紅い豊前の瞳には、彼の熱で溶かされきった私の姿が映っていた。

20230621