豊前の視線の先は、バイク。
その姿を見つめている私の事など、一切気付く気配はない。
整備をしている時の豊前の眼差しは、仲間と談笑している時とはまるで別人だ。
馬小屋の近くに存在する建屋は、主に農作業用機械が格納されている。目立つのは桑名が使う大型の農耕機。その片隅に置かれているのが豊前のバイクだ。任務が無い日は決まってこの小屋を訪れて、精密な部品を手入れしている姿をよく目にする。
時折暇を見つけては私を乗せてくれるバイクは、彼がこの本丸に顕現してからこつこつと賃金を貯めて万屋で購入したものだ。まさか本格的なオートバイまで仕入れているとは思わなかったが、さすが万屋の名を冠するだけある。
綺麗な顔に機械油を付けて、時折風が吹き込んでくるとはいえクーラーのない場所で汗まみれになって、よくも没頭できるものだと感心する。
そこに普段のような朗らかな表情はなく、真剣な眼差しでパーツを磨いている。
彼に手入れされるバイクは、きっと幸せ物なのだろう。
「……うぉ、あるじ?! いつから居よったん?!」
ようやく私の存在に気が付いたらしい豊前は、大袈裟なまでに驚いて作業の手を止める。
少し離れた位置にしゃがんで豊前の様子を窺い始めてから、五分程度経過した頃だろうか。
「ちょっと前」
「居るなら言ってくれよ。んな所あちーだろ? てか、何か用か?」
「ううん。たまたま通りかかっただけ。邪魔してごめんね」
本当は声を掛けようと思ったけれど、豊前の真剣な表情に釘付けになってしまった。なんて、当本人には内緒にしておこう。
「邪魔じゃねーけどさ、主をほったらかす訳にも──」
作業を中止して手袋を外そうとする豊前に思わず声を掛けた。
「やめないで。そのまま続けて」
「お? ……おう」
すると豊前は不思議そうな顔をしながら、整備に戻り始める。
それから私は時間の許す限り、豊前の作業風景を見守っていた。
◇ ◇ ◇
深夜一時、審神者専用の浴室。
事が済んだ私と豊前は共に桧造りの湯船に浸かっていた。
本来は一人用だが広々としているだけあって、豊前と一緒に入ればちょうど良く収まる大きさだ。
心地良い湯加減と、私の身体を支える逞しい腕、耳に届くのは湯の跳ねる音だけ。二人きりの空間は居心地が良くて、ついうとうとしてしまう。
「眠そうだな」
思わず笑いを溢した豊前は、私を更に近くへと抱き寄せた。
濡れた髪をオールバックにしていると端正な顔立ちと印象的な紅い瞳が際立って、直視するのはなんだか心臓に悪い気がした。
「今日は蒸し暑かったからな。疲れちまったんだろ」
「豊前のせいだよ」
ほんの数十分前の情事の激しさを忘れてしまったのだろうか。私の上で見せた獰猛な眼差しが嘘のように、今の豊前は優しく穏やかだ。
「あー。……悪かったな。調子に乗り過ぎた」
豊前はバツが悪そうに謝罪の言葉を口にする。
本音を言えば謝られるようなことは無いのだけれど。
豊前とこういう仲になって半年が過ぎた。最初こそ加減がわからず探り探りで失敗もあったけれど、回数を重ねた今はお互いの事を深く理解していくようで、この上なく幸せな時間だ。
「けど、も気持ち良さそうにしてたよな? すげー可愛かった」
「〜〜……うるさい」
至近距離で意地悪く微笑まれる。密着していた身体を離すとちゃぷ、とお湯が波打った。
逃げてゆく私を追いかけるように、髪や肩に唇を落としながら愉しそうに笑う。
「や、」
「逃げんなって」
湯舟の中で豊前の足の間に座らされ、背後から抱き締められているこの状況は居心地が悪いわけではないけれど、だんだん先程までの感覚が蘇って恥ずかしくて落ち着かない。
「ひゃ、?!」
突如項に吸いつかれて、大袈裟な声が浴室に響き渡る。
「がこっち向いてくれねーから」
振り向くと豊前は、拗ねたように口を尖らせる。
誰からも頼られる兄貴分で、基本的には懐の広いおおらかな性格だけれど、たまにこうして思春期の男子のような振る舞いをされると可愛らしいと思えてしまう。
まんまと豊前の方向を向かされて、無防備な唇を奪われた。
「豊前、可愛い」
「……あんま嬉しくねーよ」
「どうして?」
「よりずーっと年上の男ってこと、忘れてねーか?」
「忘れてないよ?」
くすくすと笑い合うと、また唇を奪われてしまった。
比べる対象が居ないけれど、恐らく豊前は口吸いの頻度が多い。何百回重ね合わせたか分からない口付けは甘くて、心地よくて、夢中になってしまう。背中に手を回せばいやでも鍛えられた逞しい身体を意識してしまう。頭の奥がぼんやりしてきたところで、豊前は唇を離した。
「……あー。このままじゃのぼせちまうよな」
「そーだね……」
流石に限度を覚えたのか、豊前は私を横抱きにして湯船から上がった。
脱衣場で大判のタオルを巻き付けられてからすぐ寝室へ直行すると、布団の上に降ろされる。
「ほら、水」
コップに注がれた水を手渡されると、その間身体をタオルで優しく拭かれる。
「いいよ。そんな事まで……」
「体だるいんだろ?」
まるで赤子のように世話をされる事になれない私に対して豊前は全く辞める気配はなく、頭のてっぺんから脚の爪先まで、隅々まで丁寧に水気を取ってゆく。
その姿はまるで愛車を手入れしている時のようだ、とぼんやり思った。
「ちゃんと水飲んだか? 気分悪くねーか?」
「大丈夫」
慌てて水を飲んで頷くと、豊前は私の身体に着替えの浴衣を羽織らせた。さらさらの生地に袖を通すと、しっかり着付けまでしてくれる。まるで着せ替え人形のようにでもなった気分だ。甲斐甲斐しく世話を焼く豊前の姿が新鮮に映った。
「髪も乾かさねえとな」
「んー……」
気分が悪いという訳では無いが、やはり少しのぼせてしまったらしい。頭の奥がぼんやりとして既に眠気が限界だ。このまま乾かさずに寝てしまいたいが、豊前はそれを許さなかった。
「だーめだろ、このままだと風邪ひくから。もう少し我慢な」
豊前は洗面所からドライヤーを持ってくると、私の髪を乾かし始めた。
肌に直接かからないよう気を遣いながら、髪に温風を当ててゆく。頭皮を撫でる豊前の大きな手の感触が心地良い。思わず瞼を閉じそうになるのを必死で耐えた。
硝子製の小瓶から椿油を手に取ると、傷みがちな毛先まで丁寧に塗り込まれて、櫛で梳かされる。痛くもなく弱くもない絶妙な力加減は宝物を扱うような手付きで。
ふと豊前の顔を見れば、真剣な眼差しが私の髪に注がれている。
その光景が嬉しいと感じるのは――私は心のどこかで豊前のバイクの事を羨ましいと思っていたのだろう。
「終わったぞ」
閉じていた瞼を開けると、豊前は手鏡を手にしていた。
そこにはつやつやと光り輝くように綺麗に髪を整えられた自分の姿が映し出されていた。
「綺麗。自分でやるのと全然違う」
「そうか? まぁ……本音を言うと、いつかこうしてみたかったんだ」
率直な感想を述べると照れくさそうに笑いながら、豊前は私の隣に腰掛けた。
「髪を? そんな事考えてたの?」
意外な話につい食い気味に尋ねた。
「きれいな髪なのに、乱す事の方が多いだろ。俺」
「……たしかに。そうだね」
この布団の上で無造作に散らばっていた私の髪を思い出しながら、そんなことを気にしていたのか、と思わず笑みが溢れた。
「でも、これからは。たまにでいいから、こうして手入れさせてくれよな」
頷くと、豊前は私の髪を指先に絡めて嬉しそうに目を細めていた。