顔をなくした

「大将、いる?」

 控えめな信濃の声に私はすぐに返事を返す。
 出来るだけ、『いつも通り』を装いながら。

「おはよう信濃」
「朝ごはん、ここに置いておくね」
「……ありがとう」

 信濃は部屋の前に朝食が乗った膳を置いて、男士たちが居る広間の方向へと向かう足音が響く。
 空気が凍てつく冬の朝。仕事着に着替え、白い息を吐きながら部屋の障子を開いて、部屋の前に置かれた朝食を受け取る。味噌汁と焼き魚に炊きたての白米。
 本音を言えば食欲は湧かない。
 けれど残せば歌仙や燭台切が不安に思うだろうから、食べなければならない。薬の隣に置かれたコップ一杯の水に視線を向ければ、水面に包帯で覆われた自分の顔が映る。それが視界に入った途端思わず膳を落としそうになった。

 ──まるで、お化けみたいだ。

 その日は、各本丸の審神者を集めた政府の研修があった。
 隔月定期的に行われるもので、私はいつも通り参加していた。通例通り近侍は付けずに、本丸のゲートから直接会場へと向かった。
 それからの事はよく覚えていない。
 目が覚めた私は政府専用の病院のベッドの上にいた。
 研修先で時間遡行軍の襲撃に遭い、多くの審神者が負傷したと担当の医師に話を聞かされている最中は、これが現実だとは到底思えなかった。
 右半分の顔の感覚がない。
 包帯の下は皮膚は赤黒く変色していた。
 気に入っていた顔というわけでもない。
 むしろコンプレックスすらあった自分の顔。
 それが失われた辛さに涙が出てくるということも無く、悲しさも、怒りも、何の感情も無かった。ただ「もう元には戻らないんだ」と、そんな言葉だけが口から漏れただけ。
 一週間の入院から本丸に帰ってきても、刀たちの前に出るのが億劫になり、業務は私室で行なうようになった。取り繕う笑顔も作れなくなった自分の顔を見られるのも、気を遣われることも嫌だったから。幸い審神者用の私室には専用の浴室やキッチンが備え付けられており、刀剣男士と顔を合わせなくても仕事と生活はできる。
 私は、一生このままでいるつもりだろうか。
 ぼんやりとそんな考えが浮かぶ。
 部屋に引きこもったままでいいはずが無い。
 ──それはわかっている。
 私はこの本丸の惣領だというのに、この顔が衆目に晒されると思うと勝手に身体が震えてしまう。

「主」

 昼下がりの事だった。声がした方向を見れば、障子戸の向こうに人影が見える。その正体に気付いてひゅっと息が詰まる心地がした。
 声の主は豊前江。
 ──私がずっと避けていた刀だ。

「悪いな、突然。身体の調子はどうだ?」
「……大丈夫だよ」

 顔以外はね、と心の中で付け加えて、どうしようもなく惨めな気持ちになった。
 襲撃の際に同じ場所にいた審神者は、骨折や擦傷と酷い怪我を負い、今も病院で後遺症に苦しむ者もいる。私の場合は怪我の見た目が派手でも、痛みは少なく日常生活も難なく送ることが出来る。こんなのは軽傷の部類だ。

「そうか。なら、良かったよ」

 豊前の安堵の声が響いて、それからうるさい程の沈黙が流れた。
 外は雪が降っているのだろう。
 廊下に座る豊前はきっと凍える程に寒いに違いない。
 病院から本丸に帰ってきた私は、本丸の刀の誰よりずっと豊前を遠ざけていた。もう二週間前以上会話を交わしていない。
 会いたくない。
 こんな顔を見せたくない
 ──このままでいいはずがない。
 相反するふたつの感情で頭の中が麻痺しそうだ。

「……入って、いいよ」

 意を決して、私は口を開いた。
 障子越しの豊前は一瞬、迷うような素振りを見せて、静かに障子を開いた。
 縁側から見える庭の景色は朝とは様変わりして、雪の白で覆い尽くされていた。
 豊前は白い息を吐きながら一礼して部屋に入る。
 二週間ぶりに見る豊前の顔は畏まっていて、ますます精悍な顔つきに思えた。相も変わらず華やかで美しい顔立ちだ。
 火鉢の隣に腰を下ろす豊前は、包帯に覆われた私の顔を視界に捉えると一瞬無意識に表情を歪めた。
 豊前はいつだって表情に嘘がつけない。
 半分になってしまった私の顔を見て、きっと『可哀想』とでも思っているのだろう。

「……どうしたの? 何か用事でもあった?」
「雪が降ったら、雪見をしようって約束しただろ」

 その言葉に数週間前に約束した豊前の言葉が蘇る。
 豊前江は事ある毎に私を連れ出しては、必ず次の行き先を約束する。それは私にとって何よりの楽しみだったのに、大事な約束を忘れていた。
 私はただ、豊前に会う事を恐れていたから。

「今は、そんな気分にはなれねーか」
「…………」
「まあ無理に連れ出しに来たわけじゃねーから、いいよ。今日じゃなくても」

 豊前は普段と何一つ変わらない優しい眼差しを向けた。
 そんな豊前の前で私は、頭の中で共に歩く自分の姿を想像する。
 左目の奥がじんと痛む。
 初めて包帯を解いた時の、もう治らない右半分の顔を思い返すとただ情けなくて、どうしようもなく惨めで仕方がない。

「もう、どこにも行けない」
「そんな事」
「こんな顔で豊前の隣に居たくないの」

 ──こんなのは八つ当たりだ。
 刀剣男士が羨ましい。
 肉体が傷付いても手入れで治ってしまう彼らの肉体が、綺麗な顔が、妬ましい。こんな身も心も醜い自分が、豊前の隣に居ていいはずがない。

「ごめんなさい。だから……もう終わりにしよう」

 終わるもなにも、私と豊前はなにも特別な関係だったわけじゃない。
 豊前江は本丸に在る刀剣男士の一振だ。
 私が顕現させた、戦の道具。
 審神者と物の間に恋愛感情なんて必要ない。
 豊前が私を慕っているように見えるとしたら、それは『持ち主』だからという他ない。
 俯いていた顔を上げると、目の前の光景に息が止まった。豊前は部屋の火鉢にあった火箸を手に持ち、目の前に翳している。それを自分の顔に近づけようとして、私は咄嗟に豊前の腕を止めた。

「何してるの……?!」

 心臓が、ばくばくと聞いた事のない大音量で早鐘を打つ。豊前の身体にしがみつく今も彼の行動が理解出来ずにいた。私が止めなければ豊前は間違いなく顔に火傷を負っていただろう。唐突な彼の行動。思い当たる理由に私は心の底から怒りが込み上げてきた。

「私と同じなろうとしたのなら……本気で怒るよ。そんな事されても嬉しくない」

 豊前は火箸を下ろすと、無表情がふっと緩んだ。

「一緒になれば、気になんねーだろ」
「そういう問題じゃない」
「わかんねーよ。俺の隣に居たくない、なんて言われたって」

 いつになく弱々しい豊前の一言で我に返る。
 私は豊前の手から火箸を取り上げて元の場所に戻すと、俯く彼に向き直った。

「そんなもので焼いたら、痛いに決まってるでしょう……」

 たとえ刀剣男士が水から顔を傷付けても手入れ部屋に行けば治るのに。
 今の私にとっては嫌味な程に羨ましい存在だ。
 見上げると、そこには今にも泣き出しそうな豊前の顔があった。頬に手を伸ばすと、強い力で手首を掴まれる。

「どうだっていい」

 いつもは爛々と輝くような豊前の赤い瞳は、夕日に染まる海のように何処か悲しげに揺らいでいた。

「あんたの傷が治るなら、俺の顔だってなんだってやる」
「え……」

 どうしてそんなに、私よりも苦しそうなのだろう。
 怒りと悲しみが入り交じった眼差しを向けて、今にも崩れ落ちそうな豊前の姿にただ呆然とする。

「俺は、がどんな姿になっても傍に居たい。 これから先も、あんたと一緒に色んな景色を見たい。その想いは変わらねぇよ」

 強い力で抱き締められて、私は逃げ場を失った。
 慰められたいのは一生消えない傷を負った私の方なのに──これではまるで私が豊前を慰めているみたいだ。
 脱力しながら、目を閉じる。全身で感じる彼の温もりに包まれながら、無意識に片方の目から涙が溢れ出す。
 私は後悔した。
 豊前に嘘を付いてしまった。
 私はきっと、この刀の傍から離れる事なんて出来ないのだろう。

 2022.--.--