「おい、でーじょーぶか?」
それは、執務室で遠征の戦果報告を読み上げている最中の事。
ふと主の顔を見ると、珍しく疲れたような表情をしている。顔色は蒼白としていて目もどこか虚ろだ。寝不足にしてもこのような状態にはならないだろう。
茹だるような暑さの盛りは過ぎたとはいえ、身体が疲労が溜まってしまったのだろうか。
「あぁ、ごめんなさい。大丈夫」
俺の視線に気付いた主は慌てたように取り繕うが、こんな状態の主に向けて遠征の報告をするわけにもいかない。
咄嗟に思いついたのは──。
「……膝、貸すか?」
「え」
ペンを握り締めたまま、俺の顔をじっと見つめて硬直している。笑い飛ばされるかと思いきや、目を丸くして戸惑うようなそぶりを見せる。
そういえば、主には一度も膝枕をした事はないということに気付いて気恥ずかしさが襲った。けれども実際、俺が主にしてやれることといえばそれしか思いつかなかった。
それに、最初に言い出したのは自分だ。
──こうなったら意地でも膝枕させてやろう。
「……そんなこと言って『気安いぞ』って言うんでしょ」
日頃の行いのせいか、主はじとりと疑いの眼差しを向ける。
「あ? 言わねーよ。少し休めって。ほら」
執務室の長椅子に腰掛けて自らの膝を叩いた。詳しいことはよく分からないが、自分の膝は寝心地が良いらしい。信頼する仲間が言うのだから寝心地にはそれなりに自信はある。
今は職務中ではあるが、今日はそれほど忙しくはないと言っていたし少し休むくらい許されるだろう。ともかく、羞恥心を誤魔化しながら手招きをすると主は席を立って、遠慮がちに隣に座る。しばらく俺の膝をじっと見つめて、躊躇しながらも最終的には『えい』と膝に頭を置いた。
「悪くはねーだろ?」
「うん……ちょっと恥ずかしいけど、……落ち着く、かも……」
主は目を閉じて、数分もしないうちに寝息を立て始めた。
よほど疲れていたのか、それともどこか不調なのか。
いつか薬研に聞いた話では、人間の女というものは月に一度身体の調子が悪くなる日というものがあるらしい。『その時はそっと助けてやってくれ』と聞かされたことがあるが──。起こさないようにそっと主の額に手を当ててみても、高熱という程ではない。
「まあ、そういう日だってあるよな」
執務室には時計の針の音と安らかな寝息だけが響く。
本丸で百振りもの刀を従える主は、近頃はさらに貫禄が出て立派に職務をこなしている。はじめは年端もいかない女が主だと言う事に驚いたが、今ではすっかり一人前の審神者だ。
微動だにしない伏せられた睫毛。普段目にするよりも幾分幼く見える横顔を眺めながら、緩やかな時間が過ぎていった。
──いつまでもこんな日が続けば良いと願うのは、きっと不謹慎なのだろう。
「いつもの場所、連れて行って」
「なんだよ藪から棒に」
澄んだ夏空が広がる朝。農作業小屋の隣にあるトラクター置き場で、桑名に頼んで置いてもらっているバイクの整備をしていると、唐突に主が現れた。
その姿は仕事着の和装ではなく動きやすそうな普段着だ。珍しい光景に違和感を抱きながらも、工具を置いて主に向き直る。
主が言う『いつもの場所』とは数年前、主と遠乗りに出かけた際に偶然見つけた、絶景が見渡せる穴場の事だ。
本丸からバイクで山道をひたすら登った先にある一面の海を見渡せる場所。本丸から遠く離れているため、恐らくこの本丸の誰も知らない。俺と主だけが知る場所だ。
万屋に行った帰りに寄り道したり、暇を見つけては主を乗せて出掛けることは珍しい事ではないが、そこに行くのはほぼ年に一度。節目を迎えた時なのだが、今日は特にに何かの記念日というわけでもなく、思い当たる節もない。突然すぎる要求に困惑しながらも、主に頼られて悪い気はしなかった。
「だめ?」
「わーったわーった。いいよ。今終わるから準備してろよ」
二つ返事で承諾すると主は嬉しそうに返事を返して、早速準備をしに本丸へと戻る。その足取りは軽そうで、先日の窶れた姿が嘘のようだ。元気そうな後ろ姿にひとまずは安堵する。
執務室での一件があった翌日、主はこんのすけと共に政府の施設で健康診断を受けたという。
心配して帰りを待っていた刀達に主は『ただの検査』『ただの夏バテ』と説明していたらしい。それからは普段と変わりない生活を送っているが、そんな出来事に俺たちは思い知らされたのだ。
日頃元気で暮らすが『人間』だと言うことに。
あの日からずっと、胸の中にもやもやとした暗雲のような感情が居着いている。
今もまだ、それは消えない。
遠乗りは単なる気分転換なのだろう。
この予感がただの思い過ごしであるように。そう言い聞かせながら整備を続けた。
「夏の海も綺麗だね」
本丸を出発して四十分程蒸し暑い山道を走り、開かれた場所には吹き抜ける風に潮の香りが漂っていた。
雲ひとつない青空。どこまでも青い海。飛び交う鴎。太陽に反射する眩しい水面の輝きを、主は目に焼きつけるように眺めている。
「ほら。ここに来るのって、いつも春でしょ?」
出かける前に加州に無理矢理被らされたつば広の帽子を飛ばされないように抑えながら、風を浴びる主の後ろ姿を眺めた。
天と地の青。風に靡く綺麗な髪と小さな背中。それは、何よりも愛しい風景だった。
「そーだな」
彼女の節目の季節は春だ。毎年決まった日に訪れるこの場所で、来年も、その先も無事にこの場所に来れるよう願掛けをする。……と言っても、主がどんなつもりで此処に来ているのかはわからないけれど。
──何故、なんでもないような日に此処に来ようと思ったのだろう。
疑問を抱きながら見つめる彼女の背は、何処か寂しそうに映る。
「豊前。この先もずっと、私をこの場所に連れてきてね」
「……どーした、急に」
「…………」
「当たり前だろ。つーか、それを約束したのは俺の方だったよな?」
主は振り返ると、長い髪を風に靡かせながら笑顔で大きく頷いた。その表情に思わずどきりと胸の鼓動が高鳴る。
「うん。約束ね」
「……なぁ、」
『──今、何考えてんだ?』
嫌な胸騒ぎがして、唇が震える。
その先の言葉を言い出せない。
眩しいほどの笑顔がまるで『何も聞くな』と言いたいように見えて、俺はただ口を噤んだまま主の背中を見つめていた。
それから数日後。
晩夏の本丸は朝から物々しい空気が漂っていた。どこもかしこも本丸中の刀剣男士が浮かない顔色で悪いうわさ話を繰り広げている。
そして八時丁度に大広間には全ての刀剣男士が集められると、皆一様に主が訪れるのを待っていた。
しかし、本来審神者が座るべき場所の前にはこんのすけだけが静かに佇んでいた。
「皆様にお知らせがあります」
「おい、主はどうしたんだい」
鶴丸は少し苛立った様子でこんのすけを急かした。
「現在審神者様は、眠っております」
「寝てる?」
「やはり、この間の検査で何か病でも見つかったのかな」
石切丸の問いにこんのすけは首を振る。
「いえ。病は見当たりませんでしたが――先日の検査で審神者様の霊力値が著しく低下している事が判明しました。そのため身体に負荷が掛かり、近頃は酷い眠気に襲われる症状が出ていたそうです」
こんのすけの言葉に思い当たる節がある俺は、まるで胸に矢が刺さったような気分に陥った。
(──負荷……?)
こんのすけの話し声が耳から遠のく。立っているだけなのに足元の感覚がない。これは悪い夢だろうか。目の前が暗転して、目眩すら覚えた。
「皆様ご存知の通り、審神者の霊力無しではこの本丸を保つことが出来ません。霊力を失った審神者は引退し新たな審神者へ引き継がれる本丸もあります。もしくは審神者の職を辞して現世へと戻り、本丸を解体する場合も」
「しかし審神者様の判断は『眠り続けることによってこの本丸を維持する』事でした。審神者様の希望により、初期刀の加州清光には審神者の代理として──」
「主、二度目を覚まさない……なんてことは無いよな」
こんのすけの説明に割行ってそう口にした途端、大広間に沈黙が流れた。しんと静まり返った部屋の中、俺はただ唇を噛む事しか出来なかった。
誰もが無言で、本来審神者が居るべき高座に視線を向ける。
恐らくその場に居た全員が審神者の状況を理解出来た瞬間だったのだろう。
「残念ながら」
「ちょっと待ってよ。……嘘だろ? これからずっと眠ったまま? 聞いてない。そんなの、主一言も言ってくれなかったじゃん」
「言わなかったんでしょ。清光に『そんなのダメだ』って反対されるから」
取り乱し、興奮状態のままこんのすけに掴みかかろうとする加州の隣で大和守は沈痛な面持ちで諌めた。
「そんなの……当たり前だろ」
加州はそのまま膝から崩れ落ちた。
この本丸で一番初めに顕現された初期刀。
頼もしい存在である加州清光の慟哭を、その場の刀は沈痛な面持ちで眺めていた。
彼女が選んだ道は間違いだ。
この本丸に居る刀は誰もがそう感じているだろう。
ただ審神者の職を辞してこの本丸を捨て、現世で人として生きて、戦とは無縁な生活を送る。普通の幸せを掴む事は出来たはずだ。
──それなのに今もこうして、彼女の霊力が俺たちの命を繋いでいる。
引き継ぎを選ばなかったのは、余程この本丸を他人に渡したくなかったのか。真意は主が目を覚まさない限り永遠に闇の中だ。
「審神者様は眠ってはいますが、生きています。そして、その心臓が止まった時、この本丸の役目は終わります。それまでの間『本丸をお願い』と主様より言付かっております」
淡々と託された言葉を告げるとこんのすけは深々と頭を下げ、加州はその場に蹲り感情を押し殺して拳で畳を叩いた。
その後の話によれば、政府の診察を受けた際には既に『いつ目が覚めなくなってもおかしくはない』と宣告されていたらしい。たまたま今日がその日だったという事だ。
余命宣告に等しい状況にも関わらず、彼女には審神者を辞めるという選択肢はなかったらしい。
他の刀剣男士の話を聞くうちに、限られた僅かな時間の中で彼女はやりたい事をやり切ったらしい。
元々綺麗だった部屋も埃ひとつなく整理されていて、別れだと悟られないように刀剣男士一人一人と言葉を交わして、そうした『未練を残さないための身辺整理』は完遂したようだ。
俺とあの場所に出かけたのもその一環だったのだろう。
そうして、俺の主は二度と目覚める事のない永遠の眠りについた。
「──おい、」
もう見なれた主の寝顔。
呼びかけても返事はない。
厳重に警備された本丸奥の一室で布団に横たわる彼女は、眠りについた日から何も変わりはない。
あれから数年が経つというのに老いることはなく、むしろ眠りに付く直前の頃よりいくらか血色が良い。
この本丸を維持するための霊力を放つだけの装置と化してしまった彼女は最早人間ではない。まるで永遠に時が止まったままの人形のようだ。
いつ訪れても主の部屋は賑やかだった。
毎日歌仙が活けた美しい花が飾られ、その隣には満開の桜の枝が飾り気のないガラス瓶に活けられている。五虎退や秋田が書いたものであろう主への手紙が枕元に置かれている。傍には桑名の収穫した果実や野菜、小豆が作った菓子も、それらはまるで神前に供えられる供物のようだ。
皆の『主に何かしてやりたい』という気持ちは痛いほどにわかる。伝えたい事もたくさんあるのだろう。
思い浮かぶのは、他愛のない会話で笑う主の顔だ。
もう二度と拝むことは出来ないその表情が昨日の事のように蘇る。
それから、本丸に常駐している女の使用人に外出用の着替えを頼み、の身体を背負って紐で括り付けるように身体を支える。意識のない人間の身体を運ぶにはだいぶ労力がいる。
それでも行かなければならないのは、彼女が最期に願った事だからだ。
意識のないを抱えてバイクを走らせ、辿り着いたのはいつものあの場所。
長い冬が終わり、小さな花々が芽吹き始めた野原に主を抱えて共に座る。ゆっくりと頭を自分の膝の上に乗せて海の方向に顔を向けた。
の瞳は頑なに閉じられたまま、あれ程はしゃいでいた絶景など見ようともしない。
目の前には穏やかな春の海が広がっている。
いつ訪れても、一人だけで見るには惜しい光景だ。
「確かに夏の海もいーけど、俺はやっぱり春の海がいいよ」
身体を置き土産に、取り残された気分だ。
あの日、薄々嫌な予感はしていたものの何も知らされず勝手に思い出作りをされる方の気持ちにもなって欲しいものだ。
本当の事を言ってくれたなら、言いたいことは山ほどあったのに──何も伝えさせてくれなかった。
「いちばん最初にここを見つけた時の、嬉しそうな顔が忘れらんねーんだ」
「好きだなって、思ってさ」
「穏やかな空も海も、の笑顔も。全部ひっくるめて、俺のいちばん好きな景色だよ」
「も、俺と同じ気持ちだったって……思い続けても良いんだよな?」
柔らかな頬に触れても、は何も答えなかった。