永訣 Ⅱ

「明日、目覚めなくてもおかしくはありませんよ」

 終わりはいつか必ずやってくる──とは言うけれど、私にとってそれはあまりにも突然の出来事だった。
 時の政府管轄の病院。白で塗り潰された真四角の箱のような診察室で告げられたのは、霊力値減少による生命の危機。
 審神者特有の職業病というものは数多く存在するが、私の場合はその中でも重篤な症状。恐らく最悪と言っていい。
 つまり。このまま審神者を続ければ死ぬという事だ。

「まあ、早急に引き継ぎをすれば今の体調不良もすぐに治まりますし、後遺症もなく日常生活を送ることが出来ますよ。退職後の就職先は政府の──」
「不要です」

 医師が引き出しの中から書類を取り出そうとした瞬間、気付けば私は口を開いていた。

「最期まで本丸に留まります」

 啖呵を切るようにそう宣言すると、医師は驚く素振りもなく『そうですか』と口にして引き出しを閉めた。
 最初で最後の診察が終わり、ひと月分の鎮痛剤を処方されて施設を後にする。今朝は久々に本丸を離れたついでにお土産でも買って帰ろうと思ってはいたものの、寄り道せずに本丸へと戻る事にした。
 診断内容を素直に清光に告げようものならきっと怒髪天を衝かれてすぐさま本丸を追い出されるだろう。
 自分がそうなった時の彼を想像すると心が痛む。
 初期刀清光も、本丸に居る刀剣男士も、私が本丸に留まることを喜ばないだろう。物言わぬ置物になってしまうのだから、私の選択に呆れられる光景が目に浮かぶ。
 それでも、私の意志が揺らぐことは無い。
 後の事はこんのすけにのみ遺言として伝える事にした。


「──連れて行って」

 早朝。もう嗅ぎなれた機械油の香りに包まれながら、愛車を整備する広い背中に呼び掛けた。
 突然の願い事に豊前は困惑の表情でこちらを見上げる。
 察しのいい豊前のことだ。年に一度決まった季節にしか行くことの無い場所に突然連れていけだなんて、不思議に思うだろう。
 いつ目を覚まさなくなるかわからない。
 今日は目覚めることが出来たけれど、『その日』は明日かもしれないし、一週間後、一ヶ月後、もしくは半年後かもしれない。そう医師に告げられても次の季節を迎えられないという事は自分自身がよくわかっていた。

「じゃあ、行くぞ」

 バイクの後ろに乗り込んで豊前の背中を掴む。
 きっとこれが最後の遠乗りになる。
 勿論彼はその事を知らない。
 もしも私が本丸の引き継ぎを選んだなら、こうして新しい審神者を載せるのだろうか。他の審神者を連れて、色んな景色を眺めるのだろうか。
(……嫌だ)
 脳裏に過ぎる光景に、胸が苦しくなってつい呼吸が乱れた。
 胸が苦しい。
 鎮痛剤は飲んできたけれどこんな所で倒れる訳にはいかない。それに、豊前に心配をかけたくはない。精一杯苦しさを抑えて思わず彼の衣服を握る手に力が籠った。

「どーした?」
「……なんでもない」

 そうして私と豊前は『いつもの場所』へと辿り着いた。
 海風を浴びながら、太陽に反射する眩しい水面の輝きを見下ろす。
 医師に自分の身体の事、引き継ぎを提案されてから真っ先に思い浮かんだのは、この場所と豊前の事だった。
 もし私の後に来た新しい審神者が──なんて想像すらもしたくなくて、咄嗟に本丸に留まる事を選んだのだ。
 初めてこの地に訪れた時の、嬉しそうな豊前の横顔が忘れられない。
 この場所は二人で見つけた、二人だけの場所だ。
 だから私は、彼を永遠に独り占めする事にしたのだ。





「や〜〜〜〜っと起きたな、この寝坊助」

 目覚めるなりばちん、とおでこを弾かれた。
 額に走る激痛。
 骨まで響く衝撃。
 痛い──という事はこれは夢ではないのだろう。
 徐々に鮮明になる視界の中で最初に捉えたのは、機嫌が悪そうな豊前の顔だった。眉間に皺を寄せて、深紅の眼を細める。せっかくの綺麗な顔立ちが台無しだ、と思った。

「おはよ」
「……おはよう……?」

 何気ない朝の挨拶を交わして布団を捲り、ゆっくりと起き上がる。周りを見渡せばここは住み慣れた私室。それも、審神者の職務をしていた時と何一つ変わりない光景が広がっていた。
 ──そんなはずはない。
 私はもう、二度と目覚める事は出来ないはずだ。
 それなのに本丸はあの頃とちっとも変わらない。しかし、あれほど賑やかだった本丸はやけに静かだった。誰かの話し声ひとつ聞こえない。目を閉じてみても感じ取れる刀剣男士の気配は目の前の豊前江だけ。布団の隣で胡坐をかく豊前は戦闘服に身を包んでいるが、刀を腰に差しているだけで防具は身に付けていない。

「ほら、行くぞ。支度しろよ」

 待ちくたびれたような言葉を投げかけて、豊前は立ち上がると足早に部屋を後にした。いつも遠乗りに行く時と何ら変わりがない調子だが、いったい何処に行くと言うのだろう。

「う、うん」

 寝ぼけ眼を擦って、急いで寝間着から着物に着替える。豊前に無防備な寝顔と寝間着姿を晒していたことに今更恥ずかしさを覚えつつ、身なりを整えて誰もいない廊下を通り玄関を出る。
 豊前は門の前で腕を組みながら待っていた。
 傍らには手入れされた愛車のバイクが止まっている。

「何処に行くの?」
「いつもの場所、って言いてーけどな。今日は別の場所だ」

 そう言いながら手を引かれて後ろに乗せられるとヘルメットを被せられた。
 エンジンを蒸かし、長年暮らした本丸を後にする。その時ふと、この場所には二度と戻らない予感がした。
 走り出したバイクは空を裂くようなスピードで山道を走った。天気は白い霧に覆われていて青空を拝むことは出来ない。豊前は一言も喋らないまま、どこか思い詰めたような雰囲気で走り抜ける。峠を越えて山道を登れば登る程に視界は悪く、やがて一面の白に包まれた。
 そうして辿り着いた場所は、まるで海のように広い川だった。山の頂上に近いはずなのに、濁りなく澄んだその川はどこまでも続いている。不思議な光景だ。バイクを止めて砂利道に降り立つと向こう岸は靄で霞んで何も見えない。
 これまで豊前には様々な場所に連れられたけれど、初めて訪れる場所だ。幻想的なその光景を目の当たりにして、次第に私は全てを理解した。

「ずっと待っていてくれたの?」

 隣にいる豊前を見上げる。
 最後に豊前と会話を交わしてから何年、何十年が経ったのだろう。もう二度と会えないと覚悟していたはずなのに、彼が今この瞬間隣に居てくれる事に今更驚きを隠せない。

「行き先がどんな場所でも、を連れていくのは俺の役割だろ」

 豊前は遠くを眺めながら独り言のように呟く。
 彼が見つめる川の向こう側。
 何も見えないその先こそ、私たちの永遠の別れを意味する場所だ。

「……そう、ありがとう」

 礼を言うと豊前は私の顔を覗き込んで、んんっと喉をならす。それから、意地悪そうに眉間に皺を寄せながら口を開いた。

「なー。俺に言い残した事、あんじゃねーのか?」
「あ、うん。豊前、大好き」

 豊前は私の突然の告白に目を見開いて、深紅の瞳が点になる。まるで火がついたように顔が紅潮してゆっくりと視線を逸らされた。そんな初心な反応も懐かしい。

「…………」
「照れてる」
「うるせー。……そういうのは、もっと早くに言っとけ」

 豊前は右手で口を塞いで喉をならし、赤い顔を隠しながら不満を零した。

「だって、こんな事言い残すのは落ち込むかなって……」

 ──そうだ。
 豊前に想いを告げて別れるなんて言い逃げのような真似は出来なかったから、何も言わずに別れたのに。
 もう一度こうして顔を合わせて話をするなんて思いもしなかった。
 豊前を他の誰かに渡したくはなかった。けれど主と刀以上の関係になってしまえば、私が眠ったあとも彼の心を縛って、きっと苦しめる事になってしまうだろうから、口にはしなかったのに。
 それでも豊前は二度と目覚める事の無い私の傍を離れないで居てくれたらしい。

「一人で見る景色と、と見る景色は全然違ったよ」
「……うん。ごめんね」
「散々放ったらかしやがって、……ったく」

 呆れたような笑顔を浮かべながら両手でわしゃわしゃと髪を掻き乱されて、腕を引き寄せ胸板に押し付けられた。

「俺も。ずっとずっと、好きだよ」

 苦しい程に押し付けられた腕の中は温かくて、見上げると豊前は屈託のない笑顔で笑っていた。

「じゃあな、

 華やかな顔立ちで微笑む愛しい刀の手を離して、私は穏やかな川の浅瀬に足を浸した。

20221101