うそつき

日向正宗との手合わせ稽古が終わり、松井江はふと空を見上げた。
 晩夏の蒼空に一匹の赤蜻蛉が飛んでいる。小さな身体で透明な羽を懸命に羽ばたかせ、あちこちを飛び遊んでいた。
 秋の訪れを感じながら赤蜻蛉に誘われるがままに、ふらりと本丸の周りを散歩する事にした。激しい運動の後には『くーるだうん』が必要だと篭手切に教えてもらったので、その教えに習い、軽く身体を動かしながら歩みを進める。
 夏の終わりに吹き抜ける風は涼やかで、賑やかな季節が徐々に去ってゆく、寂しい匂いがする。蔵の裏手に人影を見付けたのは偶然の出来事だった。

「──なんで主の事避けてんの?」

 聞こえてきた加州清光の不機嫌な声に、松井は思わず木陰に身を隠す。

(喧嘩だろうか)

 九十を越える刀剣男士が集う本丸だ。それに加え、元主が敵同士という境遇の刀もいる。基本的に平和な本丸ではあるが、小さな諍いが無いわけではない。そんな時は必ず陸奥守吉行のような仲裁役や古株の刀が場を諌める。怒りを露わにしているのがこの本丸でも最も古参の加州清光という事実が意外だった。

「別に、避けてねーよ」

 加州清光が怒りをぶつける相手は豊前江。郷義弘が作刀した、松井とは兄弟同然の刀だ。まさか口論の相手が身内とは思わず松井は肝が冷える思いがした。

「だって、あからさまだろ」
「そー見えんのなら、悪かったよ」
「……あ?」

 空気がひりひりとした気配を感じる。今にも喧嘩に発展しそうな空気だ。もしも私闘が行われるようであれば、その時は自分が殴りこんででも止めに入らなけばならないと思った。それは私闘禁止が本丸の規則だからではなく、主と身内の悲しむ顔が見たくないからだ。仲間の血は一滴たりとも流させたくない。しかし、二人が言い争う原因は松井も常々疑問に感じていたことだった。

(避けている……か)

 以前、演練で他本丸の豊前江を見かけた時のことを思い出す。朗らかな笑顔で、仲睦まじげに審神者と接していた姿が目に焼き付いた。それはこの日の演練相手に限った事ではなく、豊前江という刀はいずれもそういった性格なのだと知った。
 この本丸は違う。
 ──豊前は、あまり笑わない。
 審神者との会話を極力しないように意識している。例えば審神者が会話に混ざればその場から一歩引くような、彼女から目を逸らすような、そんな行動が多く見受けられる。それは行動を共にする事が多い松井ですら感じる違和感だった。もちろんそれ以外は与えられた任務をこなしているし、命令に従わないわけではないのだが。

「俺だって『主を敬え』とか、二人の仲を取り持ちたい訳じゃない。……ムカつくし。主だってそんな事望んでないだろうけど。ただ、主が豊前に何か気に触るような事したんじゃないかって悩んでたから」

 加州清光は恐らく、審神者に相談を受けたのだろう。それで直接豊前に理由を聞きに来たという事らしい。長年連れ添ってきた初期刀だけに、主に冷たい態度を取り続ける豊前に立腹しているが、当の豊前は態度を改める兆しはさらさら無いように見える。松井は誤解されかねない行動を取る豊前の態度にひやりとしながらも動向を見守った。

「んな事言ってたのか。 気に触る事なんて何も。それだけは伝えてくれねーか」
「……っ。自分で言えよな」

 加州は捨て台詞を吐いてコートを翻し母屋がある方向へと歩いていった。
 加州が去った後、豊前は参ったように首の裏を掻きながら俯いていた。
 松井にとって豊前は自分の気持ちを理解してくれる唯一無二の存在だ。豊前の言葉に救われた事もある。けれど今の自分は豊前の行動が理解できない。
 同じ刀工が打った刀。江のものは皆血をわけた存在のように気心が知れた仲だ。今の豊前はどこか不気味で、その姿に黒い靄がかかった様に思えてしまう。
 ──胸騒ぎがする。
 そこへ、地面を蹴る駆け足の音が響く。
  加州清光が戻ってきたのかと思えば、その正体は主だった。

「今、清光来なかった?!」

 着物の袖を捲り、息を切らしながら現れた主は呆然と立つ豊前に尋ねた。
 どうやら加州清光とは行き違いになったらしい。

「いや……」
「そ、そう。来なかったらいいの。来ても、言われた事何も気にしないでね」

 安堵しながらも、焦りを隠せない様子で豊前に懇願する。
 それとは対照的に豊前は眉ひとつ動かさなかった。

「ああ。わかった」
「ごめんね、突然変なこと言って。それじゃ……」

 主はほっとした様子で早々にその場を後にする。
 去り際に伏せられた瞼に諦めの色が滲んでいた。素っ気ない豊前の態度に脅えているようだ。遠のく主の小さな背中を目で追いながら、豊前は微かに口を開く。

「ごめんな」

 弱々しくて、風の音に消え入りそうな声で囁かれた言葉は、謝罪だった。
 やはり、豊前は審神者を心の底から憎んでいる訳では無いのだ。遠くから主を見つめる眼差しは、憎しみなど微塵も感じない。それどころか、一番大事なもののように──彼女に恋焦がれているようにしか見えない。
 何故、そこまでして突き放すのだろう。
 主は豊前に嫌われていると認識している。
 豊前と会話する時の様子は怖々としていて、その姿が痛々しくて見ていられない時がある。だから加州清光の気持ちもよくわかる。見えない所ではまるで慈しむような視線を向けると知ってしまえば尚更、冷遇する理由がわからない。

「……豊前」
「うお、なんだ松井か?」

 音もなく現れた松井に、豊前は心底驚いたような表情を浮かべた。

「少し話さないか」

 本丸の門を出て、塀沿いの小道を歩く。
 空の色は蒼から茜色へと移り変わってゆく。
 美しい光景を眺める豊前の表情は険しかった。

「豊前は、何を隠しているんだ」
「…………」

 単刀直入に聞けば答えてくれるとは微塵も思わなかった。隣を歩く豊前は口を真一文字に結んで、けれどもその眼差しは先程とは打って変わって開放されたかのように、穏やかなものに変わっていった。
 嫌な予感がした。
 不気味な違和感を、ただの思い過ごしであって欲しいと心の中で祈りながら豊前の隣を歩く。踏み締める一歩一歩が重く感じられた。
 小高い丘の上に辿り着くと、燃えるような夕陽が空を赤く染めている。今日もまた平穏無事に一日が終わろうとしていた。

「やっぱ、いい眺めだよなぁここ」
「……そうだな。まるで世界の全てが赤に染まったみたいで綺麗だ。主にも見せてあげたい……この気持ち、豊前ならわかってくれるだろう?」
「ああ」

 ずっと強張っていた豊前の表情からようやく笑みが零れた。
 これは紛れもなく豊前の本心なのだと、よく分かる。

「豊前は正直だからわかりやすいな」
「はは。俺が松井みてーに賢ければ良かったんだけどなぁ」

 松井は自嘲する豊前の胸ぐらを掴んだ。

「──裏切ったのか?」

 見開かれた蒼穹の瞳に映るのは、どこか虚ろな豊前の顔。
 目の前にいるのは兄弟刀でも同胞でも何でもない。
 ──時間遡行軍によく似た匂いを纏わせた刀だ。
 松井に敵意を向けられても豊前は反抗の意思を示さなかった。ただ静かに睫毛を伏せて、酷く辛そうに眉間に皺を寄せる。

「まあ、過ぎ去った時間をやり直そうとしてんだから、そりゃそうだよな……」
「豊前!」

 敵意を向けたのは刀剣男士としての本能的なものだ。
 半分は信じられない、信じたくないという思いに苛まれている。同胞──自分自身の理解者の一人である豊前に殺気を向けなければならない。やりきれない思いに握りしめた手に力が篭もった。
 主の刀として。豊前と同じ江のものとして。
 間違いを起こしたならば取るべき行動は、たった一つだ。
 松井は己の本体の鍔に指をかけた。

「──ここに、来たんだ。俺と松井とで」
「僕、と……?」
「まだ松井が顕現して間もない頃にさ。ここから見える夕陽に感動して……お前、鼻血出してを困らせてたっけなぁ」

 笑みを漏らしながら話す豊前は、遠い昔の出来事を思い出すかのような優しい顔をしていた。
 ──しかしそれは、松井にとって全く身に覚えのない記憶だ。
 この場所で豊前と共に夕陽を見たのは、今日が初めてのはずだ。それに、自ら審神者を遠ざけている豊前が行動を共にする事など想像し難い。
 豊前の眼差しはは本丸を囲む塀の向こうに視線を向ける。

「ほらあいつ、ほとんど本丸の中に居っからさ。もっと色んな景色を見せてやりたくなって、色んな所に連れてっいって……」

 豊前が語るありえない事だらけの記憶に松井は困惑した。
 顕現した当初から審神者を避けているというのに、二人きりでどこかに外出するような間柄とは思えない。それはこの本丸に有る刀なら誰もが思うだろう。昔を懐かしむようにぽつぽつと語ったあと、目を伏せて唇を噛んだ。

「──『末永く』なんて……んな事言わなきゃよかった。俺が、あいつを想わなければ──そうすれば俺のせいで罠なんかにかかる事もなかったんだ」
「……罠?」
「修行中に俺は、敵に捕まって、その間主は時間遡行軍に唆されて。……行方不明の俺を探しに過去へと遡ってな。嵌められたんだ」

 豊前は自分の胸ぐらを掴む松井の手首を掴んだ。

「……?!」

 掴まれた手首に強い力を込められて、思わず息を呑む。

「それから主は歴史改変の疑いで政府に拘束された。歴史を守るべき存在の審神者でありながら、過去の改変を行おうとした罪でな。……それからあいつ、どーなったと思う?」

 睨めつけるその瞳は空を染める夕陽よりも激しく燃えている。
 行方不明になった豊前の所在。
 過去に遡った主がしようとした事。
 ──どうなった、なんて考えるまでもない。
 歴史改変を阻止するという役目を背負う審神者の背信行為など、極刑は免れない。本丸も即解体されるだろう。しかしそれはいつの記憶だと言うのだろうか。
 そもそも豊前の修行は、現在政府からの許しを得ていない。これから先の未来だとしても──あってはならない事だ。

「俺さえ主に関わらなければ、それでいい。……本当は顕現しなければ一番良かったのかもしんねーけど、俺が今こうして過去に居るという事は、を助け」
「豊前!!」

 松井は無意識に名前を叫んでいた。
 例え作り話だとしても、それ以上聞きたくない。
 仮にこれからそんな未来が訪れるだなんて想像もしたくない。

「……だからさ、いっその手で刀解されるくらい嫌いになって貰わねーと困るんだ」

 松井の手から解放された豊前は力無く笑った。
 皺になった襟元を正しながら松井に背を向けて、地平線に落ちゆく夕陽を眺める。陽に透ける黒髪が風に靡いていた。
 目の前の豊前が未来から過去をやり直すために現れたというのならば、最早刀剣男士ではない。
 無防備に背中を晒す彼を──歴史改変を目論むものを斬らなければならない。
(僕に斬られる事を望んでいるのか? ここで豊前を斬れば、主は……)
 松井の脳裏に審神者の顔が過ぎり、鞘を握りしめたまま刀を抜けなかった。
 失いたくない。
 主も、豊前も。
 今自分が手を下せば──想像しただけで胸が張り裂けそうなほどの痛みが走った。
 紅掛空色の景色に蜩の音が響いていた。
 その中に、二人を呼ぶ小さな声が聞こえる。夕飯の時間を伝えに来た短刀たちだ。

「おー! 今行く!」

 豊前はいつものように快活な声をあげて大きく手を振る。
 殺伐とした空気が、普段と何ひとつ変わらない日常に引き戻される。
 今起きたことが全て夢であればいいのに。

「……嘘だよ。全部」

 去り際に、豊前はそう耳打ちした。

20210215