相手のことを忘れる薬を飲むor相手を手酷く抱くのどっちかしないと出られない部屋

 まるで真四角の白い箱のような、殺風景な部屋に二人きり。
『相手の事を忘れる薬を飲むか』『手酷く抱くか』
 いずれかの選択肢を選ばなければこの部屋から出られない。そんな無理難題が掲げられた看板を前に、私と豊前江はただ呆然と立ち尽くしていた。部屋の中を見渡す限り、当然のように出入口というものは見当たらない。

「飲み」

 長い沈黙を破ったのは豊前だった。透明な液体が入った薬瓶を、主人である私の目の前に差し出す。その表情は前髪に覆われて窺い知ることは出来なかった。ガラス瓶の中の透明な液体は、何の変哲もないただの水に見える。はたして本当に記憶を失わせる効き目があるのだろうか。遡行軍の仕掛けたものならば、ただの水でも呪いが掛けられているのだろう。実際は飲んでみなければわからない。

「豊前が飲んで」
「……俺に、お前のことを忘れろって言うのかよ」

 聞き慣れない弱々しい声にはっとして顔を上げる。
 いつもは力強く輝く紅の瞳が今は悲しげに揺れていた。眉根を寄せて、微かに唇を震わせている表情を目の当たりにして罪悪感が込み上げる。
 初めて豊前を顕現させた日のこと。
 練度が『特』まで上がった事を嬉しそうに報告してきた日のこと。
 貯めた給金で購入したバイクで遠乗りに連れ出された日のこと。
 後ろの座席から見上げた豊前の背中。
 あの日二人で眺めた光景も。
 ──大事な思い出がすべて消える。

「ごめんなさい。でも、私だって豊前のことを忘れるわけにはいかない。だから絶対に飲まない」

 私は差し出された薬瓶を押し退けて強く拒絶する。人間である私が『豊前江』の存在を忘れるわけにはいかない。再び顔を合わせることがあっても、たとえ一時的であっても記憶だけは消したくない。人間の記憶こそが彼がここにある寄す処だから。その代わりに豊前が私の事を忘れたっていい。辛くないと言えば、嘘になるけれど。

「…………」「…………」

 重い沈黙の時間が訪れた。まるで死刑宣告を受けた囚人のようだ。双方が記憶を失うことを拒否すれば『手酷く抱く』以外の選択肢はない。その行為を想像しかけて、思わず深いため息をついた。
 信頼出来る臣下。大切な本丸の仲間。
 今の関係を壊したくはない。
 それに、豊前の事は好意的に思っているけれど、それが本当に恋愛感情なのか、気持ちがハッキリとしているわけではない。ともかく、この関係間で体を重ねるわけにはいかない。それは豊前も同じ思いを抱いているように見える。
 ふと隣を見上げると、豊前は背を向けたまま気まずそうに頭を掻いていた。その時、私の中で何かが閃いた。

「──豊前、ちょっと屈んでくれる?」

 良い考えかどうかはわからないが、きっと試してみる価値はある。あれこれ考えるよりも先に口を開いていた。

「屈めばいーのか?」

 振り向いた豊前は不思議そうな顔をしながら、命令に従い膝を折って屈んだ。私の身長をはるかに越す豊前の顔が、今は今剣くらいの場所にある。端正な顔立ちと長い睫毛。力強い眼差しがすぐ側にある。緋色の瞳に釘付けになりそうになるのを必死で堪えた。何だか慣れない、不思議な感覚だ。
 とりあえず、静かに深呼吸をして心を落ち着ける。そうして私は両手を出して、豊前の黒髪をわしゃわしゃっと掻き乱し、文字通り『手酷く』『抱いた』。

「うわ?! な、いきなり、なんしよんかちゃ?!」

 いきなり審神者に大型犬のように扱われた豊前江の戸惑いの声が私の胸の中で響く。すると、殺風景な部屋の壁にすうっと扉が現れた。

「出口……か?」

 豊前はその場にすくっと立ち上がると、先程までの重い空気を吹き飛ばすような満面の笑みを咲かせた。

「ははっ! よくわかんねーけど、やったな。主!」

 判定が下った事を確認して私の背中を叩く。先程とは打って変わって、いつもの調子に戻った豊前を見見ると安堵のあまりそのまま膝から崩れ落ちそうになった。
 もしも条件が『交合(まぐわ)え』などの直接的な言葉だったら、逃げ道は無かっただろう。貞操の危機を脱した──というよりも、豊前に抱かれる姿を想像しただけで、心臓がどうにかなりそうだった。
(命拾いした……)
 何はともあれ、これで解決だ。心の中でガッツポーズを掲げながら、『出られない部屋』の出口へと向かおうとした私の腕を、豊前の手が引き留める。

「じゃあ、ここを出る前に『お返し』しねーとな?」

 見上げれば、まるで不出来な鳥の巣頭で微笑む豊前の姿。その表情は、静かな怒りを孕んでいる。
(──あ。)
 目の前の色男の御髪をぐしゃぐしゃにしたのは他でもない、私だ。
 何より豊前江は負けず嫌いな男である。
 “仕返し”。その気配を察知した私は青ざめながら咄嗟に目を瞑った。もうこれは、同じような鳥の巣頭にされても仕方がない。ぎゅっと固く目を閉じて身構え、緊張で強ばる私の身体を、豊前の香りがふわりと包んだ。

「……ありがとな」

 気付けば私の身体は豊前の腕に抱かれていた。耳元に甘く優しい声が届いても何の言葉も返せない。
 ──今、何が起きているのだろう。とくとくと脈打つ心臓の音。豊前の体温をじかに感じてようやく豊前に抱き締められているという実感が湧いてきた。どうして、と口にするより先に豊前の顔を見ると嬉しそうに口角を上げながら口を開いた。

の言葉。俺、ずっと忘れねーから」
「…………」

 予想外の抱擁に呆然と立ち尽くす私の頭をグローブでぐわしと一掴みされて、密着していた身体が離される。その瞬間、一抹の寂しさを覚えた。

「それじゃあ、行くか」

 心做しか耳が赤い豊前の手に引かれて、私たちは『出られない部屋』を後にしたのだった。

20210629