「はぁ。切れ味が鈍っちまう……」
「……鈍りません」
豊前江は『疾さ』にこだわりを持つ刀だ。
故に、じっとしている事が多い近侍の仕事は苦手らしい。先程から執務室の窓の外を眺めてはペンをくるくると回している。
外は清々しい晴れの日で、走りに行くには最適の気候だろう。ちょうど一年前、豊前に連れられて山へと走りに行った時の事を思い出す。厳しい冬を越えた春の山は暖かな日差しと瑞々しい空気に溢れていて、仕事柄閉じこもりがちな私にとって良い気分転換だった。
「じっとしてっと、勘も鈍るんだよ」
そうは言っても仕事は仕事だ。近侍の当番は全刀剣男士が週替わりで任務に当たる。例外はないのだ。
(本気で鈍ると思ってるのかな……)
『身体が』ではなく『切れ味』という点が、豊前が人間ではないということを実感する。
確かに、近侍の任務は審神者の護衛と業務の補佐、つまり雑用係を兼ねており、政府からの調査依頼等が無い今日のような日は暇である。
明石国行が近侍の日は『こんな暇な日がずっと続けばええんですけどなぁ~』と呑気にだらだらしていた。同じ江の桑名は週末に近付くほど『土に触れたい……』と禁断症状を起こし、対して松井はソツなく事務仕事をこなしていた。刀剣男士それぞれに個性豊かで、二人きりになれば新たな一面も見えたりする。だからこその交代制だ。
「豊前、そこの資料取って」
「これか?」
机の上に積み重なった紙束の山から資料を取り、差し出された時ふと、豊前のシャツに視線が行く。
「あれ……」
胸の下。真ん中に位置する釦(ボタン)は、首の皮一枚──ではなく糸一本辛うじて繋がっている。朝は特に異変を感じなかったが、どこかに引っ掛けたのだろうか。思わず、今にも外れてしまいそうな釦に手を伸ばした。
「っうわ、はは、ちょ、こちょばいけ、やめろちゃ」
──なにも笑わせようとして擽っているというわけではないのに。
豊前は結構な擽ったがりなのだろうか。
「じっとして。落ちちゃうでしょ」
「急に触られっと、っ」
「ああ。ほつれちゃってるね」
「……気安いぞ……」
恨めしく抵抗する豊前の耳はほのかに赤い。
そういえば、『俺に触れることが出来たら褒めてやんよ』とまで宣っている事を思い出した。疾さを目指すが故に、人間に触れられるのは性にあわないのだろうか。豊前はまだまだ謎が多いな、と思いつつ引き出しから小型の裁縫道具を取り出した。
「じゃあシャツ、脱いで」
「な、」
「このままやる? 針刺さっちゃうかもしれないよ?」
ともかく、服装が乱れていてはせっかくの色男が台無しだろう。
豊前は一瞬ぞっとしたような表情を浮かべつつ『わーったよ』と言いながらジャケットを脱ぎはじめた。ベストを脱ぎ、白いシャツから現れた見事な肉体にぎょっとして、思わず見入ってしまいそうになった。逞しい胸筋に、六つに割れた腹筋。腰が細いように見えて意外と厚みがある。かなり着痩せするタイプなのだろう。
(びっくりした……)
四六時中男士に囲まれた生活を送っているため、男性への免疫が高まってしまったが故の、女性としては恥じらいに欠けた言動だったかもしれない。心の中で反省しつつ。手渡されたシャツにまだ豊前の体温が残っていて、普段見慣れたレディースよりもサイズが大きい。そんな当たり前の事に緊張している自分がいた。
シャツに針を通して、外れかけていたボタンを縫い付ける。本来刀剣男士衣装が破れた場合は、手入れ部屋に住まう妖精さん達が修復にあたるのだが、わざわざ出向くよりも今ここで直した方が早い。豊前は頬杖をつきながら私の手ををじっと眺めている。
「手慣れたもんだな」
「私の服は私が直すしかないからね」
「ああ、そーか……」
私の服も妖精さんが直してくれれば良いのだけれど。そんな事を考えながら黙々と釦を取り付ける。
他にも解れている所がないか確認しつつ、完成したシャツを豊前に手渡した。
「ね、すぐ終わったでしょ」
すると豊前は、それを広げて私を包んだ。
「……???」
突然の行動に頭に疑問符が浮かぶ。上裸の豊前が目と鼻の先にいる、という事態がなかなか過激な光景だということに気が付いて、一気に恥ずかしさが襲った。
「な、何……?」
「俺のシャツ持ってっと、が小さく見えんな…と思って」
単に体格を比較したかっただけらしい。好奇心旺盛な豊前らしいが、いわゆる『彼シャツ』という言葉は知らないだろう。豊前の香りが色濃く感じられて、私まで無駄に意識してしまう。
「………気安いね」
「それは俺ん台詞ちゃ」
人懐っこそうな、くしゃっとした笑顔で微笑んだ。
◇◇◇
──雨の匂いがする。
まだ昼だというのに空は暗く、どんよりと重たげだ。やがて大地を揺らすような雷鳴が轟いた。
一報を受けた私は着物の袖を捲り、時間転移装置の前で待機している。今から帰還する部隊を迎える。もう何度も繰り返してきた。けれどこの緊張感は慣れるものではない。中庭の神域が光を放ちゲートが開くと、泥と血の匂いが漂った。降り出した雨の匂いと交わって生臭い。
傷を負った男士は重傷者から優先的に手入れ部屋へと担ぎ込まれる。それを指示するのは審神者の役割だ 部隊全員の応急処置と手入れが終わった後、私は身を清めてから男士の部屋がある棟を訪れていた。
夜半を過ぎた真夜中。冷たく降り注ぐ雨が止み、先程とは打って変わって澄んだ夜空が広がっている。
部隊長である豊前江は、一番深い傷を負っていた。片目は潰れ、左脚が使い物にならなくなる程の大怪我だった。
そっと豊前の部屋の障子を開く。部屋の中央に布団が敷かれ、綺麗に修復が済んだ身体で寝息を立てている。こんな時、彼らが刀剣男士で良かったと思いつつ、複雑な気持ちになる。
寝ていても鼻梁の通った美しい顔立ちだ。穏やかな寝顔を見てようやくほっとした。
豊前の部屋を訪ねた理由はもう一つ。
手入れ部屋を担当する妖精が、声を出せないながら必死でジェスチャーで私に伝えた内容によると、右手に何かを持ったまま離さないのだという。
川原の石ころひとつならば歴史改変に支障はないが、持ち出してしまった物によっては元の時代に返却しなければならないため、早急にチェックが必要というわけだ。
寝ている所に申し訳ないとは思いつつ、豊前が眠る布団の中に手を入れる。
(……夜這いと思われたら嫌だな……)
仕事仕事。そう頭の中で反芻しながら、胸の上に置かれた右手に触れる。寝間着姿に着替えてはいるもののグローブだけはそのままだ。伝えられた通り、不自然なまでにこぶしが固く閉じられている。
(豊前〜〜! お願い開けて)
些細な事だが、歴史を扱う以上万が一の事があってはいけないとこんのすけが煩いのだ。口には出さず、心の中で叫び願いを込めながら、必死で指を開く。すると、豊前の手からこぼれ落ちたものが布団の上に転がった。
「これって……」
それは、赤く染った釦だった。本来は黒一色だが、豊前が流した血によって赤く染まっている。
──もしかして、数日前に私が繕ったものだろうか。
まさか、さすがにそんなことは。
戸惑っていると掠れた声を上げながら豊前が寝返りをうつ。伏せられた睫毛がぴくりと蠢いて、赤い瞳と視線がぶつかった。
「……?」
「!」
「なんで、ここおるん……?」
まだ眠たげな様子で尋ねた。
審神者とはいえ無断で男士の部屋を訪ねる事は無い。ましてや恋仲でもない私がここに居るのは正当な理由がある。これも審神者の仕事のひとつだからだ。それなのに、何も言葉が出てこないのは何故だろう。
乱れた前髪から覗く、不可思議そうな眼差しで、私の手に視線を向ける。
「ああ、が付けてくれたやつ……。また取れちまった……」
まだ微睡みの中にいる豊前は、掠れた声でぽつりと呟いた。
(なんで、釦よりも──)
釦を気にかけるよりも、もっと大事なものがあるだろう。そう言って怒らなければならないのかもしれない。けれど、血塗れの豊前の姿が脳裏に蘇って、涙が溢れそうになるのを堪えた。
「ん顔、思い出すけ……手放すわけにはいかねーから……」
豊前は次第に覚醒していき、ゆっくりと起き上がった。我に返ったのだろう。気まずそうな表情で口元を抑えている。
「──…………いや。てか、なんでここに……」
「豊前が手に何かを持ったまま、離さないっていうから」
「え? ……あぁ」
面映ゆそうに首をかいた。
「んなの無我夢中で、覚えてねーよ」
そう言って顔を背けた。今までの発言は完全に寝惚けていたらしい。まるで豊前の本心を覗き見してしまったようで、ほんの少し罪悪感を抱く。それでも胸がいっぱいになって、勢いのままに豊前を抱き締めた。
「うお?!」
「壊れないで、帰って来てくれて、ありがとう……」
本当は怖かった。酷い怪我を負った豊前を見るのが辛かった。そんな事を言っていられないとは分かっていても。豊前が私の事を恨んでいる──そんな想像ばかりを何度もしていたから。
「……そういや言ってなかったな。ただいま。無様な所見せちまったけど、ちゃんと帰って来たよ」
ぽんぽんと背中を叩かれて、堪えていたはずの涙が溢れ出た。
豊前の体温を感じる。
心臓の鼓動も。
満身創痍でも破壊されずに、生きて帰ってきてくれた。だから礼を言わずには居られなかった。
「……なあ。……言いづれーんだけど、布団の上で抱きつかれっと……その」
「!! うわあああ」
豊前に指摘されてようやく我に返った私は咄嗟に身体を離す。
「ご、ごめ……」
なんて大胆な事をしてしまったのだろう。少し呆れ顔の豊前の頬も心做しか赤く染まっていた。
「…………」「…………」
妙な沈黙が流れる。
互いにもごもごと口を噤んだまま、まともに豊前の顔すら見られない。
とりあえず持っていた釦を手渡して、すくっと立ち上がる。
「報告……あるから……」
「おー……」
ぎこちない会話を交わして、私は豊前の部屋を後にした。頬を撫でる夜風がオーバーヒートした頭を冷やしてくれるようだ。私は今やるべき事だけを考え、早足で手入れ部屋へと急いだ。
◇◇◇
一人残された部屋で豊前は釦を眺めていた。
主が付けてくれた釦だけは、何としてでも守りたかった。なんの意味のない願掛けだとしても。
まさか、無意識のうちに行動に現れて、その上本人に知られる羽目になるとは思いもしなかったけれど。
この間、畑当番の時に桑名に言われた会話の内容を思い出す。
『豊前は主の事が好きなんだねぇ』
『…………あ?』
『よく二人で出かけるでしょ?』
『 それとどういう関係があんだ?』
『もしかして、無自覚だった?』
『……好きとか、わかんねーよ。人間じゃねぇんだから』
『それでも『主に綺麗な景色を見せてあげたい』とか、『何年先も一緒にいたい』って言うのは求愛……あ、違うか。人間で言う恋なんだと思うよぉ』
そうは言われたものの『恋』というものがまだわからない。
例えるなら、の手で誰にも見せたことのない己の内側。心に触れられたようで、こそばゆくて仕方がない。これは性分なのだ。
けれど、知りたいとも思う。
──いつか、の心にも触れてみたい。
身体に残ったの感触を思い出して悶々とする。真っ赤に染まった顔が蘇って、なかなか大胆な事をするものだと、つい笑いが漏れた。こちらも負けていられない。そんな対抗心に火がついた。
「……今に見てろよ」
リクエスト:『つつきすぎボイスでお話』ありがとうございました。