甘い檻


「修行は順調かな」

 間近で聞こえた山姥切長義の声に、私は咄嗟に手紙を畳んで見られないよう真上にあげた。心臓がドクドクと大袈裟な音を立てて、執務室の机の前に立つ長義の顔を見上げた。

「え、じゅ、順調だって」

 そんな私の行動を眇めて、長義は『へぇ……』と意味ありげに呟くその顔は疑心に満ちていた。
 私が読んでいるのは、現在修行に出ている大般若長光からの手紙。今手にしているもので三通目。つまり、何事もなければ明日の夕方にに帰還する予定だ。

「君が面白い顔をしているものだから気になってね」
「面白い顔……」

 自分の顔に手を当てると、確かに頬が熱を持っている。手紙を読んだ率直な感情が表情に表れていたのだろう。

「そんなにいかがわしい内容だったかな」

 長義はくっ、と微笑みながら、自分の席に座り紅茶に口を付ける。彼が近侍の時は、休憩時に紅茶を飲む習慣がある。目の前には長義が手ずから淹れてくれた紅茶が置かれていて、ふわりと良い香りが漂ってくる。

「いかがわしいって……」
「口説く文句が書かれていそうだと思ってね」

 ──鋭い。
 三通とも修行の経過報告ついでに、私への言葉が書かれているものだから、絶対に人には見せられない内容だ。長義も別に手紙を覗こうとしていたわけではないのだろう。つい過剰な反応を取ってしまった事を反省した。

『また、あんたの顔が浮かんだ』

 遠く離れた場所にいると言うのに、まるでこちらの反応を見透かされているようだ。長義が口にしたような『面白い顔』も全て大般若の想像通りなのだろう。
 大般若の修行先は彼の言うとおり、意外な場所だった。てっきり彼の逸話として有名な名高い将軍の元へ行くのだと思っていたが、彼なりの理由があるのだろう。
 トラブルなく順調に進んでいる事には安堵しているが。もしも返信出来るものなら『私の事はいいので修行に集中してください』と送っただろう。
 ──そういえば修行先からの手紙は政府の検閲があった気がする。そんな事を思い出して、また複雑な気分になってしまうのだった。


 審神者になって、まだ日が浅い日の事だ。
 その頃の私は、戦に関わるという事の現実を知って、耐えられなくなっていた。
 戦で人々が無惨に殺され朽ちてゆく姿も。罪のない人が焼けていゆく煙の匂いも。目を逸らしてはいけなかった。それが時間遡行軍と戦うべく産み出された刀剣男士を率いる審神者の責任だから。
 それまでふつうの一般市民だった私が、歴史に名を残す名刀の憑喪神を抱える責任の重圧に押し潰されてしまいそうだった。どれだけ策を練っても、刀剣男士が深い傷を負って帰ってくる度に無能な自分が許せなかった。
 様々な事が重なって自暴自棄になり、お酒に逃げていた──そんな時期があった。
 ここは、私のほかに人間はいない。
 弱音なんて吐けるわけがない。
 だって、この本丸の主は私だから。
 誰にも打ち明けられない弱さを誤魔化して、刀剣男士に知られないよう、隠れた場所で浴びるように酒を飲んでいた。
 それを止めたのが大般若長光だ。

『いずれ身体を壊す呑み方だ。見過ごせないさ』

 あの時彼が止めてくれなければ、きっと依存症になっていたのだろう。今頃、審神者でいたかすらも怪しい。
 今はストレス発散のために過度な飲酒をして泥酔するような事はない。──その代わりに、大般若が話を聞いてくれるから。
 楽しい事も、辛い事も、くだらない話も。どんな時も、全部聞いて相槌を打って、笑顔を浮かべて私を安心させてくれる。
 本丸から居なくなって、大般若の存在の大きさに気付かされてしまった。そんな私の心中も大般若はお見通しなのだろう。

(眠れない……)

 大般若が明日帰ってくる。
 そう思うと、心が落ち着かない。
 眠れないのならいっそ起きてしまおう。
 私は布団からむくりと起き上がった。寝間着の上に羽織を着て、隣室の近侍に気付かれないようこっそりと自室を抜け出した。
 日中とは打って変わって静かな初秋の夜は、白銀の月が、地上を白く照らしている。庭先から虫の音がよく聞こえる。
 私は執務室の席に座って大般若の手紙を読み返した。手紙に書かれた達筆なその字を、指でなぞる。墨の匂いがして、つい大般若の香りを探してしまう。

「ぼちぼち帰る……って、寄り道したりしないでしょうね……」

 誰もいない執務室で一人ぼやいた。
 文章でも相変わらずの軽薄さだ。
 いつだって大般若は人に気を遣わせない。それが彼なりの心遣いだと言うことを理解している。
 大般若は、どんな風に変わってしまうのだろう。
 期待と不安が混ざりあった心を落ち着かせようと、目を閉じて椅子の上で膝を抱えた。
 今の格好では少々身体が冷える。そうしているうちに程よい眠気が襲ってきた。

「──おや、そんなに寂しかったのかい?」

 幻聴にしてはやけに明瞭なその声に、瞼を開いて顔を上げると、そこには大般若長光がいた。
 透けるような白銀の髪を一つに束ねて、桜色のリボンで結ばれている。ただ違うのは、長船派が極めた証である立襟が特徴のロングコートに、さらに華やかさを増した装飾の甲冑を身に纏っている。
 いつものような優しい眼差しで、机の前に立っていた。

「偽物……?」

 思わずそう口にすると、大般若は一瞬驚いた顔をして、噴き出すように笑った。

「あっはっは。そう思われても仕方ないなあ」

 たった数日だと言うのに懐かしさすら覚える大般若の態度。ひとしきり笑い飛ばした後、私が座る椅子の前に跪く。その姿は西洋の貴族そのものだ。

「あんたが寂しがってると思って、急いで帰ってきた。そしたら……大当たりって所かな」

 大般若が見上げるその視線の先。私の手には彼からの手紙がある。真夜中に一人、大般若の手紙を抱えて執務室に居る──それはもはや言い訳のしようがない状況だった。
 ともかく、無事に修行から帰還した大般若の姿に安堵して、はっと我に返った。
 今の私は寝間着姿だ。
 事態の深刻さに気が付いて椅子をくるりと回転させ大般若に背を向けた。

「…………まっ、……て…………」
「おや。顔を見せてくれないのかい?」

 素早く両手で顔を覆った。
 まさか、こんな時間に帰還するなんて夢にも思わなかった。心の準備というものが、なにも出来ていない。もう手遅れかもしれないが、絶対に見せられる顔ではないのだ。

「……やれやれ。俺の主人はつれないな」

 身なりをちゃんとしてから大般若を迎えたかったのに、こんな姿美しくなんてない。
 背を向けていた椅子が再び百八十度回転させられた。大般若の気配が近付くと、顔を覆う手の甲に柔らかな感触が伝わる。

「?!」

 その正体に驚くあまり、手を退けてしまった。
 視界には、目と鼻の先に大般若の顔が迫っていた。気付けば椅子のアームレストに両手を置かれて、どこにも逃げ場がない。長い手足とコートのせいで、もはや檻のようだ。

「ああ。本物のあんたの顔だなあ」

 紅い瞳を細めて微笑むと、後頭部に手を添えられて胸に押し付けられた。いつになく大胆な行動に戸惑いが生じる。言葉もなく、苦しい程に強く抱き締められる胸の中で、寂しがっていたのは大般若の方なのだと気付かされた。

20210920