椿の庭

 眼下に広がるのは見渡す限り緑が広がる田園風景。そんな鄙びた町にある丘をキャリーケースを引き摺りながら登る。
 小高い丘の上には大きな門を構えた武家屋敷さながらの邸宅がある。この地の地主の邸であったらしいが現在は住む人は無く、知人にこの家の管理を任されたのである。通行人と言えば軽トラか農作業中の老人しか見かけていない。住所は『町』とは言うがほとんど『村』といっていい。都会の喧騒からかけ離れた、穏やかな生活を送ることができそうだ。
 預かった鍵で門戸を開こうとすると、微かに空いている。不思議に思いながらも恐る恐る邸内を覗く。日本庭園には赤々とした椿の花が一面に咲き乱れていた。しばらく無人だったとは言え、思ったよりも荒れている様子はない。そして玄関先に目を移すと、あるはずのない人影を捉えた。

「(人……?)」

 一見白髪の老人にも見えたが、それにしては姿勢が良く体格が良い。良すぎるほどだ。その正体は、透き通るような白銀の髪を束ねた男性であった。切れ長の赤い瞳に見つめられると思わずどきりと胸が高鳴る。その男性を一目見た瞬間、美しいものを見たときのような、恐ろしいものに触れたような心地がした。怜悧な顔立ちに似合わず穏やかな表情をたたえるその男性は、着物を着ているものの容貌は日本人とはかけ離れている。例えて言うならば西洋の妖怪。吸血鬼といえばしっくり来る。

「おや、着いたのかい」

 記憶している限りの拙い英語で話しかけようと構えていた途端、彼の口から飛び出したのは流暢な日本語であった。

「さあ、まずは茶を煎れよう。上がりな」

 まるで絹の束のような総髪を靡かせてくるりと後ろを振り返る。髪をまとめている薄桃色のリボンに視線が釘付けになった。はぽかんとその場に立ち尽くした。そもそもこの男性は何者なのだろう。この家に住んでいるようだが、他に人がいるなど何も聞かされていない。空き家では無かったのか。

「あの……」
「この家の管理をしてくれるんだろう?」
「そうですけれど……すみません、どちら様でしょうか?」

 が尋ねると男性はピタリと立ち止まる。何か不味いことを言ってしまったのだろうかと不安になった。

「さあて、誰だろう」
「え」
「まあ……ここに暮らす変わり者さ」

 揶揄うように薄く微笑んで、玄関の方へ向かう彼の足取りはぎこちない。よく見ると右手には杖を携えている。どこか身体が不自由なのだろうか。足を引きずるように家の中へと消えて行った。このまま帰るわけにもいかず、彼の後を追う事にした。
 家の中は築半世紀は経過しているであろう古い屋敷ではあるものの、家具は少なく整然としている。家主に大事に扱われてきたのだろう。古い壁掛け時計がボーンボーンと音を立て午後二時を知らせる。テレビといった家電製品も見当たらず、二十世紀で時が止まってしまったような空間だった。ドラマや映画で描かれるような田舎のお屋敷。けれども、人気はなく、どことなく物悲しさが漂う。
 こうした畳敷きの家屋で暮らした事はない。そのはずなのにどこか懐かしい気分になるのは日本人の血、というものだろうか。通された客間で男性が辿々しい手付きで茶を入れようとしていたので、男性に変わって茶を淹れる事にした。自分で注いだものの、飲む気にはなれなかった。

「こちらにお住まいの方ですか?」
「ああ。そうだよ」

 男性の外見は年齢不詳だった。きめ細やかな白磁の肌に異質な紅の瞳は見るからに妖しげである。まるで人間味がないのに、ふとした表情や言葉は気さくなオジ様といったふうで、頭が混乱してしまう。あまり人の顔をじろじろと見るのは良くないと思いつつ、気になってしまう。身体が不自由で一人暮らしとは大変だろう。こうした家はバリアフリーとはかけ離れているだろうし。

「私は、家を間違えてしまったのでしょうか」
「違わないさ。さん」
「……え……」
「道中大変だったろう。都会に比べたら辺鄙で不便な場所だ。けれど、長閑で良い場所だよ。どうだい?憧れの田舎町は」

 突然自分の名を呼び、見透かしたように喋り始める。そんな目の前の男性に恐怖心を抱かずにはいられなかった。

「あんたがここに暮らすよう仕向けたのは俺だ」

 茶を啜りながら、そう告げた。一瞬、意味が理解できずに身体が硬直する。仕向けられた事、と男性は口にした。この話を私に勧めたのは自分の親代わりである夫妻の、知人であった。空き家があるので管理して欲しいと、管理に必要な費用も一部負担するという、田舎暮らしに憧れていた自分に舞い込んだ話。まさかこの男によって仕組まれていたと言うのだろうか。

「私の事を知っているんですか?」

 ──知らない。この男の事を何一つ知らない。きっと、一度知ったら忘れられないはずだ。
 得体の知れない男性への恐怖心が体の底から込み上げる。

「……ああ。俺はあんたに逢うためにここに居る」

 振り絞るような声だった。視線を逸らし、物憂げに語る、どこか殊勝な男性の様子には返す言葉が無くなってしまった。
 どうして、そこまでして、私の事を。
 怒りと困惑が混じった言葉が頭の中に巡る。姿形こそ見目麗しいが、冷静に考えればやってる事はストーカー紛いではないか。見知らぬ怪しい男と一つ屋根の下で暮らすだなんてあまりに非常識な話だ。それなのに何故、彼を見ると胸が苦しいのだろう。

「……変な人ですね」
「最初に言ったろう。変わり者だと」

 思わず漏らしたの言葉に自嘲するように口元を緩めた。神経質そうな外見に反して、豪放な口振り。どう見ても胡散臭いのに、彼の事が気になって仕方がない。
 椿が咲き誇る春。
 平成の世とは思えない寂れた屋敷。どういうわけか、見知らぬ男にプロポーズまがいの口説き文句を投げかけられている。


2018817