椿の庭

「おお、アンタがはんちゃんの嫁かね」
「違います」

 朝方、家を訪れたのは二軒隣に住む老年の男性だった。その土地代々の農家らしいその男性は、すでに一仕事終えてきたらしく作業着には泥が付いていた。どこか懐かしい土の匂いがする。

「これ、食べてな」

 指差したのはいつの間にか玄関先に置かれたキャベツやカブといった旬の野菜たち。この量だと一週間は献立に困らなそうであるが、こんなに貰って良い物なのだろうかと不安になる。

「すまないねえ、これ持っていってくれ」

 茶菓子片手に家の中から姿を現したはんちゃん、こと『大般若』である。それが苗字なのかあだ名なのかはわからない。近所の人は『はんちゃん』と呼んでいて、美術商で成功した大金持ちだと言っていた。真偽は定かではない。彼らの中で私は『はんちゃん』を追って都会から嫁に来た健気な女だと思われているので、信憑性など、たかが知れている。
 結局のところは、この地に留まる事を選んでしまった。ここからではホテルも遠く、旅館すらもなかったため一泊のつもりが、ずるずると暮らし続けている。母屋ではなく離れを借りているが、生活に困らないほど住環境が整っている事に驚かされた。その財源はどこから来ているのだろうか。

『あんたがここで暮らすよう仕向けたのは俺だ』

 その発言はストーカー紛いのたちの悪い冗談にしか聞こえないのに、どうして胸に響くのだろう。
 ずっと、田舎暮らしに憧れを持っていた。
 在宅でも出来る仕事。車の免許。住居とともに用意されていた自家用車のおかげで生活には困らない。──というか完全に住む前提で此処に来たので変更手続きが面倒だ。元々住んでいた場所には戻る事は出来ないし、今更帰る場所もなくかれこれ一週間が経過しようとしていた。

「世話にはならないと言ったのに、いつも悪いなあ」

 銀髪の男性こと、大般若さん(と呼ぶ事にした)は作ったかぶの浅漬けを口に運んだ。着物姿に新聞片手に姿を現すその様は昭和のような光景である。その独特な風貌を除いては。
 大般若さんは、発言通り介助を必要とせず日常生活をこなしていた。彼曰く、経年の慣れだと言っていた。けれども食事は宅配サービスに頼っていたようなので、どうせ作るのならと食事を共にする事となった。

「そろそろ教えて下さい。私とどこで会ったんですか」
「んん? そうだなあ、前世とかかな」

 ──胡散臭い。見た目は『本物』の麗人だが、喋る言葉は殆ど冗談に聞こえてしまう。一番知りたい事をいくら聞いてもテキトーな事を言ってはぐらかす。『逢いたかった』という割には詳しい事は何も話そうとはしなかった。毎日繰り返すこの応酬にもだんだん腹が立ってくる。

「……おもしろくないです」

 さすがに不満を露わにした。けれども大般若さんは気にする様子はない。きっと真相が明かされる日なんて来ないのかもしれない。

「本当の事を言っても、それこそ面白くないだろう。想像してみてくれ」
「ずるいじゃないですか。大般若さんだけ覚えていて私だけ知らないなんて」
「良いんだよ、それで。さあて……ごちそうさん」

 大般若さんは、杖をつきながら自室へと戻っていく。
 日中はそれぞれ部屋でパソコンの前に座って仕事をして、朝昼晩の食事は共にするという生活パターンが出来上がっている。
 自分でも驚く程に、共に生活していても違和感を感じる事はなかった。まるで昔から一緒に暮らしていたように錯覚するほど。 

20180825