椿の庭

 買い物からの帰宅途中に遭遇したのは近所に住む二人組の老婦人だった。どうやら井戸端会議の真っ最中だったらしい。

「おや、はんちゃんの嫁さんじゃないのかい」
「……違います」

 このやりとりももう何度目だろう。一軒家に男女が二人暮していれば夫婦と間違われても仕方のない事なのかもしれない。むしろ夫婦ではない方が不健全のような気もする。かといって妻であると嘘をつくわけにもいかない。

「そうかいそうかい。あんたがねえ」
「あんな色男、何処で捕まえたんだい」

 老婦人たちの目付きは獲物を見つけた猛禽類のように変化していた。どうやら私は彼女たち、いやこの村一帯の好奇心の対象となってしまったらしい。

「は、はあ?」

 捕まえたというか、どちらかと言えば捕まえられた側だ。今現在の状況もそう言えるのだが。

「ちょっとお茶でも飲みながら話そうかね」
「え、あの」

 あっという間に物凄いパワーで両手を掴まれ、そのまま近くの家へと招かれた。
 私は田舎に暮らす年寄りの力を舐めきっていた。やはり大般若さん──突如現れた年齢不詳の麗人の存在は町内でも話題になっていたらしい。たしかに、あれで目立たない方が可笑しい話だ。
 招かれた家では彼女らによるマシンガントークが炸裂した。出逢いはどこでだの、籍はいつ入れるかだの。そんな弾丸を受け流しようやく解放されたのは一時間後であった。

「……夫婦じゃないのに」

 やっとの思いで辿り着いた庭先で溜息混じりに独りごちる。買い物バッグには近所の人々に貰った菓子や果物が詰め込まれ、疲れもあってかなりの重力を感じる。門をくぐって玄関前を通りかかる。気付けば、椿の季節もそろそろ終わりに差し掛かっていた。
 聞かれれば聞かれるほどに大般若さんの事を何一つ知らないという事に気づかされた。本名も、年齢も、仕事屋経歴さえ。そんな男性と一緒に住んでいる自分自身が、一番理解できない。
 ──途半端なまま、いつまでもここに暮らすわけにはいかない。憧れた田舎暮らしを手放すのは惜しいが、そろそろ元いた場所に戻る事を真剣に考えよう。そう思いながら玄関を開けると、ばったりと大般若さんに向かい合った。

「あ、ああ……なんだ、今日は遅かったんじゃないかい」

 何処かに出掛けようとしていたのだろうか。その様子はどこかぎこちなく、いつもと比べてほんの少し顔色が悪い。

「ちょっと近所の人にお茶をごちそうになって」
「そうか……それなら良いんだ」

 そう言うと大般若さんは履いていた靴を脱いで、何事も無かったように部屋へと踵を返した。
 もしかして、自分を心配して探しに行こうとしていたのだろうか。自惚れだったら恥ずかしいが、そのようにしか見えない状況である。確かにいつもの帰宅時間よりもだいぶ遅くはなったがまだ夕方で、小中学生じゃあるまいし。大袈裟だ。

「大般若さん」

 私は気付けば、無意識のうちに彼を呼び止めていた。

「……遅くなってごめんなさい」

 気分はまるで、子供に戻ったようだった。家族がいない自分には馴染みのない言葉。私には、こんな事を言う相手すらいなかった。心配してくれる人が居るというのは、こんなにも心が温かくなるものだったなんて知らなかった。

「……おかえり」

 どうしてそんなに嬉しそうに微笑むのだろう。いつかその理由を教えてくれる日は来るのだろうか。彼が向ける感情の温かさに甘えて、良いのだろうか。私の心の中には、暖かな気持ちが芽吹いていた。

20180912