椿の庭

 今年の夏は猛暑になるらしい。そんなテレビのアナウンサーの言葉を聞いて、自室のダンボールに詰められた夏物の衣服を取り出した。椿の季節は終わり、庭には紫陽花の花が瑞々しく花開いている。
 夕方、遠雷に気が付いて急いで洗濯物を取り込む。すると、直後に激しい雨が降り出した。バケツをひっくり返したような土砂降りだった。まるで降り注ぐ矢を浴びるように紫陽花はじっと耐えていた。
 屋根を叩く雨音に混じって戸が開く音が聞こえる。玄関へ向かうと、そこには全身ずぶ濡れになった大般若さんの姿があった。散歩の途中に振られてしまったらしい。水も滴るなんとやらとは言うが、濡れた長い髪を解いた大般若さんの姿に少しどきりとしてしまった。

「すまない、タオルをくれないかい。雨に降られてしまった」

 不謹慎な思いは胸にしまって、急いで脱衣所から持ってきたタオルを数枚渡すと、に背を向け、水気を吸った着物の帯を解いた。換えの着物を持ってこようとしたその時。

「――!」

 それが見えた瞬間、思わず目を逸らしてしまった。
 着物の下に隠されていたのは、夥しいほどの傷痕。恐らく刃物で傷付けられたような痕が無数に存在していた。
 この平和な日本で、ああまで傷を受ける事があるのだろうか。心臓がばくばくと大袈裟な音を立てる。脳裏に過ぎるのは暴の付く稼業だとか、ニュースで取り上げられるような凶悪な犯罪者。いずれにしろ、この人は只者ではない。そんなこと薄々感じていた筈なのに。動揺していると不意に大般若さんと目が合ってしまった。

「ああ、すまない。……驚かせてしまったな」

 少し申し訳なさそうに身体の傷を隠す。
 どこか、紛争地帯の戦争に参加してきた、とかなのだろうか。謎が多すぎて何から聞けば良いのかわからない。質問したとしてもどうせはぐらかされるのだろう。

「ボロボロの男で、幻滅したかい」

 動揺する私をよそに、ふふと微笑みながら戯けてみせた。けれど瞳の奥は全く別の感情の色をしていた。私を見るその目はどこか寂しげに揺れている。

「痛かったでしょう……?」

 やっとの思いで紡ぎ出した言葉。
 胸にも腹にも、無数の生々しい切り傷が見える。彼は、何故こんなに傷を負わなければならなかったのだろう。心臓がどくんと大きく脈打つと、私の唇はまるで別の人格に操られるかのように動き出した。

「わ……わたしの、せいで……」
「……それは、違う」
「ご、めんなさい……大般若長光……私、わたし……」

 息が、苦しい。
 頭の中がぐちゃぐちゃだ。
 自分はなにを口にしているのだろう。支離滅裂な発言にも関わらず大般若さんは冷静に受け止めている。

(大般若長光……それが、大般若さんの本名ならば、私は前々からこの人を知っていた?)

 ――わからない。
 目頭が熱くなって、大粒の涙が零れ落ちる。

「……あんたは相変わらず泣き虫だなあ」

 大般若さんが近付いて、涙を指で拭う。
 雨で冷えた彼の肌が触れた。


◇◇◇


 大般若長光は本丸の縁側から冬の夜空を見上げて呟いた。
 新月の夜、使い古されたお決まりの台詞すら使わせてはくれないらしい。それは成就することのない二人を暗示しているかのようで憎らしく思えた。
 時間遡行軍との戦いが収束した本丸は祝勝ムードも落ち着いて、穏やかな時間が流れていた。刀剣たちは本丸での残り僅かな時間を思い思いに過ごしているようだ。

「あんたはどうするんだい」
「元の時代に戻る。記憶を書き換えられてね」

 大般若の隣では全てを諦めたように微笑んでいた。
 全ての審神者はこの戦いにおける記憶の消去が政府により決定された。新たな歴史改変の火種を生むことを阻止するための措置である。平成の世から召集されたも例外ではない。記憶が消されたとしても生活には困る事が無いよう、その後の生活は二二〇五年の政府が取り計らってくれるというからには心配は無用なのだろう。

「そうかい」
「……」

 そして、それはこの関係にも終止符を打つ事を意味していた。もう二度とこうして二人で縁側に座り星を眺めることは無いのだ。そんな事はいつか訪れるものだと知っていたのに、いざその時が来ると未練が足に絡みつく。

「元の世に戻ったら、何がしたい?」
「うーん……とりあえず甘いもの食べに行くでしょ。それから私、本丸みたいな田舎暮らしに憧れていたのよね。そこで戦いのない平穏な毎日を享受するでしょ、まず」

 煌々ときらめく星明かりを見上げながら今後の予定を指折り数えたその手を見つめる。物心つくよりも前から戦いに参加せざるを得なかった主が普通の女性として生活できる。それは喜ばしい事だ。けれどその表情は次第に歪んでいった。

「けど……大般若と一緒がいい……な」

 瞳に溜まった涙が零れ落ちる前にを抱き竦る。こうしながら何度も愛を囁いてきた。その度に腕の中で抵抗しながら照れるが、愛おしくて堪らなかった。

「……俺は憑喪神だ。一緒にはなれない」
「うん」

 そして、自ら大般若の手を振り解く。

「ありがとう。最期に思いきり振ってくれて」

 笑顔で、綺麗に別れたつもり。それはうわべだけで、俺の心は酷く荒れていた。本丸が閉鎖する最期の瞬間まで。

 この本丸における大般若長光の意識は消え去る筈だった。
 気付けば俺の身体は全身に傷を負って、この平成の日本に打ち捨てられていた。
 理由はわからない。憶測でしかないが俺の意識は『神』として受け入れられずに、生きながら業を背負う事になったらしい。言い換えてみれば人間としての生を得た。この傷は刀剣男士だった頃に受けて消えた筈の『苦』だ。神から人に変化した代償を一度に受け、痛みに気を失いそうになりながらも心の中は希望に満ちていた。
 もし出逢えたとしても彼女は本丸の記憶を大般若長光の事を思い出す事はない。それでも良かった。


◇◇◇


 微睡みから目が覚めても雨は降り続いていた。耳を清ますと、しとしとと静かに降る雨音が聞こえる。
 懐かしい夢を見ていた気がする。
けれど、うまく思い出す事は出来ない。いつもそうだった。夢の中はとても賑やかで、楽しくて、時に苦しい。孤独な生い立ちである自分には身に覚えのない記憶。それには常に濃い靄がかかっている。
 いつもとは違う天井だった。夜が開ける前の、仄明るい部屋の中。違和感を感じながらも朝食の支度のために起き上がろうとすると、すぐ近くに人の気配を感じた。

「おはよう」

 かすれた低い声と共に、視界いっぱいに美しい面立ちが飛び込んでくる。紅い瞳を細めて愛おしそうな表情を浮かべる大般若さんの姿に、驚いて退けようとした身体を背後から抱き竦められた。

「逃げる事はないだろう。つれないなあ……」
「いや……だって、反射的に……」

 よく見ると此処は、大般若さんの部屋の中だった。本棚には美術品や刀に関する本がずらりと並んでいる。文机は整頓されていて、几帳面な性格が伺える。
 昨日は酷く動揺してしまって、それから子供のように泣く私を一晩中宥めてくれたのだった。
 彼の匂いに包まれながら背中から伝わる体温が心地良い。

「もうどこにも行かないでくれ……」

 寝言のように囁かれたそれがいつもの口説き文句とは違う事を、私は理解していた。

20180915