僕の神様

 私の人生は順風満帆だった。だって、精一杯努力してきたから。昔から努力すればする程に結果はついてきて、勉強も部活もそれなりの結果を残してきたし、それなりの大学を卒業して誰もが知る有名企業に就職して。職場で出会った優しい先輩と恋に落ちて、結婚の約束をして、ドレスも式場も決めて。式直前に彼の浮気が発覚した瞬間、そんな私の順風満帆な人生は唐突に終わりを告げた。
 足元が崩れ落ちた今、もうどの場所に立っているかさえわからない。

◇◇◇

 田舎は静かなんて嘘だ。庭の木にしがみついて鳴き叫ぶ蝉やカエルの大合唱によく分からない鳥の機会な鳴き声。鳴くななんて叫んでも無意味だし、そんな力は一ミリも湧いてこない。
 夏の朝。照りつける太陽と青空が広がる、果てしない田舎に構える日本家屋は父の生家。父は四人兄弟の三番目だが兄弟は皆各地方に所帯を持ち、ここには祖父母だけが暮らしている。
 何処を見渡しても山。緑。田んぼ。少し車を走らせれば海。
 そんな田舎の家屋で布団を被っている二十六歳無職こと、私は婚約解消後は当然のように職場を辞め、すごすご実家に帰ってもただ涙が出るばかりで何も喉を通らず、体重は激減。痩せ細った私を心配した父がこの田舎に送り込んだのだ。
 とはいえ、思い描いていたのどかな田舎暮らしとは全くの無縁である。
 日が登れば蝉よりもけたたましく部屋の障子を開け放つ祖母の声に起こされて、朝の身支度の後細々とした農作業を手伝う健康的な生活を送っている。何かに集中している時は何もかもを忘れられるので苦痛ではなかった。
 田舎送りにされてから四日が経とうとしていた。初めはひたすら憂鬱だったが、道を歩けば驚く程に人が居ないので開放的な気分にはなれた。
 小中学生の頃はお盆とお正月は必ずこの父の生家で過ごし、仲の良い叔父叔母や従姉弟たちと河原や山で遊んだ時のことを思い出す。
 目の前に広がるのは二十年前と全く変わらない光景だ。まさかこの年齢になってこの地で暮らす日が来るなんて思いもしなかった。

 じわじわと暑い午後。日差しが照りつける道では誰ともすれ違わない。稀に軽トラが通るので辛うじて人間の気配は感じとれる。幼い頃はここまでの過疎では無かった気がするが二十年も経てば人口も変わるのだろう。
 祖母から『仏壇の蝋燭が切れたから買って来い』と多めにお金を渡されて、近所の個人商店へと向かう。ちなみに最寄りのコンビニはここから五キロ先だ。
 きっと祖母は家でじめじめとしながら過ごす私に気分転換をさせたかったのだろう。気難しいけれど優しい祖母の事だ。必要以上に渡されたお小遣いで何か必要なものでも買ってこいという意味だろうが──何も欲しくない。
 ほんの数カ月前は友人達と食べ歩きしたり、服を買ったり。物欲に塗れていたのに今は甘いものも酒を飲む気にもなれず、ただ蝋燭だけを買って帰路につく。
(あつい……)
 日傘を持つ手が怠い。
 引きこもり生活が祟って、すっかり体力が失われてしまったようだ。
(たった一人に裏切られたくらいで、情けない)
 ──私はいつまでこんな暮らしをするつもりなのだろう。
 通りかかった橋の中央で、ふと川を眺めた。
 澄んだ水面にきらきらと光が反射している。魚影だ。ふと昔の記憶が蘇り、幼い頃父と従兄弟がここで釣りをしていたことを思い出した。男同士ではしゃぐ父達を見てどうして男の人は釣りが好きなのだろうと疑問を持った事も、昔の楽しかった記憶を思い出すとほんの少しだけ心が和んだ。
 川から吹き抜ける涼風を感じながら日傘をさしながらぼんやりと眺めていると、突然誰かに右手を掴まれた。

「危ない」

 握られた手首の力強さにはっとして隣を振り向く。そこには壁のように背の高い男性が立っていて、思わず小さな悲鳴をあげてしまった。

「ご、ごめん。つい……」

 自分の頭二つ分も高い背丈にがっしりとした体付きの男性は、思いのほか高い声を響かせた。まだ若いらしいが、両目が隠れるほど長い前髪でその表情全てを窺い知ることはできない。形のいい唇はむっと引き結ばれている。作業者姿という事は、近くの農園に勤めているのだろうか。
 
「飛び降りるの?」
「え……?」
「この川、水深浅いから結構痛いと思うよ」
「いや……」
「飛び降りるならあっちの急流の方がよく流れるけど、僕の友達警察だからあんまり仕事増やさないであげて欲しいな」

 ──なんのアドバイスだろうか。
 どうやら彼は、私がここから身投げすると思っているらしい。そこまで思い詰めているように見えたのだろうか。
 ふと視線を逸らせば、すぐ側の道路には荷物を詰んだ軽トラックがハザードランプを点滅させながら路上駐車されている。慌てて駆けつけてくれたのだろう。

「そんなつもり、ないですけど」
「なんだ……そうなの? なんなんもぉ……。びっくりしやんやん……」

(やんやん……?)

 この地方ではあまり聞いたことの無い方言だ。
 でも──遠い昔に耳にした覚えがある。

「じゃあほら、乗って」
「え?」
「家に帰るんでしょ? 送るよ」
「し、知らない人の車になんて乗れません」

 このまま連れ去られる──。
 身長一八〇センチは超えているだろう。作業着の下は恐らく筋骨隆々の体格。抵抗して勝てるはずがない。身の危険を察知して、首をぶんぶんと振って拒絶するとぴたりと動きが止まった。

「〝知らない〟……か。僕のこと、覚えてない……よね。そうだよね」

 青年は寂しそうな声を発しながら視線を下げる。……とは言っても前髪隠れて見えない。なんとなく悪い人ではなさそうなのはわかるけれど、のどかな田舎とはいえ油断はできない。
 祖父母を通しての顔見知りと言えばいずれも老年で、こんなに若い男の人の知り合いはいない。

「私のこと知ってるんですか」
ちゃんでしょ。僕は、ずっと覚えてたよ」

 名前を呼ばれた瞬間、遠い過去の記憶が蘇る。私を『ちゃん』と呼ぶ恰幅のいい少年の姿。

「……くわな……。ぷくぷくしてたあの、桑名くん……?!」

 思い出した拍子につい余計な事を口走ってしまった私を見て、青年の口角は不満そうに下がっていた。

「でりかしーないねぇ。わかったなら早く乗って。熱中症になるよ」

 そう言って桑名は早々と軽トラックに乗りエンジンをかけた。

「ま、待って」

 私は急いで日傘を畳み、助手席に乗る。
 微風だがクーラーがきいた車内は蒸し暑い外と比べれば快適だ。染み付いたような泥と土の匂いがするけれど、綺麗に整頓されている。

「え、えっ。最後に会ったの、まだ小学生だったじゃない、え?! 車運転してる……?!」

 助手席に乗りながら私は動揺していた。
 祖父母の家の隣家、郷野さん家の『桑名くん』。私の記憶の中の『桑名くん』は小学五年生の男の子で、盆と正月の年二回、祖父母の家に行く度によく遊んでいた仲だ。
 最後に会ったのは私が十七歳の時だから、当時桑名は小学五、六年生。という事は七歳程年が離れているという事になる。まだ幼いながら農業に関しては博識で大人たちに褒められていた少年が──本当に彼なのだろうか。
 ほぼ十年ぶりの再会。目を覆い隠す程の印象的な髪型は当時と変わらないが、背格好がまるで違う。ハンドルを握る逞しい腕は私の一.五倍くらい太い気がして思わず目を逸らしてしまった。

「今僕十九だよ。無免許じゃないからね」
「わっかぁ……」
ちゃんだってまだ二十五、六でしょ」
「……そうだけど」

 しばらく顔を合わせていなかったというのに私の名前どころか歳まで覚えていたとは。
 ぷくぷくとしていた体型の印象が強かったあの少年が、今では全て筋肉に変換されたようにがっしりとした身体付きに成長していて別人のような変貌ぶりに驚きを隠せなかった。
 田舎の人はは結婚が早いと言うし、所帯持ちのような風格さえある。ちらりと左手を見れば指輪はしていなかった。それを見てほっとした自分が何だか情けなくなってしまった。

 家に着けば、祖父母は安心したような顔で出迎えてくれた。帰りが遅いのですっかり心配させてしまったようだった。私を連れてきた桑名の事を歓迎しもてなした。次から次へと豪勢な料理が並べられてちょっとした宴会のようだ。調子に乗った祖父が酒まで出そうとしたのでそこは全力で止めておいた。
 それから、客間では祖父と桑名の間で私には到底ついていけない農業トークが炸裂した。近頃の西瓜の生育がどうだとか、肥料の配合だとか。
 お隣さんである桑名とは時折顔を合わせてはこうして語り合う仲らしいが、桑名がこうして家に上がることは珍しいのだという。普段寡黙な祖父が若い人とたくさん喋る姿なんて、生まれて初めて見るかもしれない。お酒も入って良い気分のようだ。
 気分を良くした祖父が泊まっていけと言うので、一瞬ぎょっとしてしまったが桑名はすかさず首を振った。

「さすがに帰ります。また明日もお邪魔するね」

 桑名は名前入りの帽子を被り、私に向けてそう告げた。

◇ ◇ ◇

 翌日。宣言通り桑名は再び目の前に現れた。
 朝の雀たちの囀りの中、部屋の前の縁側には作業着姿の桑名がいる。籠に盛られた山盛りのイチゴを抱えて。

「はい、いちご。なってたからあげる」
「……ありがと……」

 まだ寝惚けた頭でひとまずお礼を言う。七月でもイチゴはなるものなのだろうか。

「じゃあ僕仕事あるから、またね」
「……いってらっしゃい……?」

 本当に、要件だけ済ませて桑名は行ってしまった。唐突に持たされたイチゴはいびつなものもあるけれど、いずれも大ぶりで、いかにも産地でしか食べられない代物だろう。東京のスーパーなら一粒数千円はしそうだが、こんなものを無料で貰っていいのだろうか。
 とりあえず貰ったいちごを早く冷蔵庫に突っ込もうと、台所に赴くとそこには祖母がいた。甘辛い匂いが立ち込めている。佃煮でも作っているのだろう。

「あらあら。じゃあ夕方何か届けてあげなさい。おかずがいいかねぇ。一人で食事用意するのも大変だろうしね」

 祖母の何気ない一言が気にかかり、首を傾げる。

「……一人分?」

 私の疑問に祖母ははっとした顔付きになり、珍しく暗い表情で口を開いた。

「……ああ、桑名くんはねぇ──」

 今年の春、桑名を育てた祖父母が立て続けにこの世を去ったのだという。
 祖母は交通事故で、祖父は後を追うように心臓発作で眠ったまま亡くなっていたらしい。
 隣家は祖父母の住む家と同じくらい広い日本家屋だが、今はたった一人で生活しているという。その話を聞いて、居てもたってもいられず、夕刻祖母が作った佃煮を抱えて桑名の家を訪ねた。
 徒歩数分の隣家。この家を訪ねるのは十年ぶりだ。亡くなった夫妻には子供の頃に可愛がってくれた恩がある。その二人がもうこの世にいないだなんて嘘のようだ。あの頃と変わらず綺麗に剪定された庭木を眺めつつ、緊張しながらも玄関のインターホンを鳴らすと、ちょうど仕事終わりの桑名が迎え入れてくれた。
 仏壇には真新しい位牌が二つ。瑞々しい見事な百合の花が供えられていた。きっと桑名が育てたものだろう。

「一人で大変ね」
「まあ、ね。でもまわりの皆手伝ってくれるからなんとかやれてるよ」

 客間のテーブルに並べられた水菓子と冷茶と漬物。向かい側で桑名は頬杖をついてにこにこ微笑んでいる。自惚れではなく、私がこの家に来たことを喜んでいるようだ。

「寂しくないの?」
「ううん。寂しくないと言ったら嘘になるけど……」

 ふと横をむく。視線の先の棚の上には土産品と共に祖父母が並んだ写真がいくつも飾られている。

「おばあさんが居なくなった後のおじいさん、見ていられないくらい悲しがってたから。きっとおばあさんが連れていったんだと思う」
「……ああ、眠ったまま亡くなった、っていう?」
「そう。ずっと一緒だったからね。なんていうか、死に顔が安らかで安心しちゃったんだ。変な話だけどね」
「そう……」

 二人は写真からも仲睦まじい様子が伺える。きっと互いに片時も離れず、仲の良い夫婦だったのだろう。今の私にとっては最も羨ましい存在だ。もやもやと過去の記憶が過りそうになって、つい胸を抑えた。

「ここにちゃんが居るなんて、不思議だな」
「そう?」
「僕、東京に居る時、どこかでちゃんに逢えないかなって思っていたんだ」
「東京に居たの?」
「今年の春までは大学生だったんだよ」

 ──という事は事故をきっかけに大学をやめて、急遽こちらに戻ったのだろう。事故後の混乱を思うと同情心が沸いてくる。

「いつか、また逢えないかなって願ってたよ。まさかこうして夢が叶うなんて思わなかった」
「……夢?」
ちゃんは僕の神様だから」

(……神様って)

 なんて大袈裟な物言いなのだろう。
 嬉しそうに語る桑名は、私がここに来た理由を知らないからそんなことが言えるのだろう。
 ──知らなくてもいい話題だけれど。

「今ちゃんがここに居るのは、僕のせいだったりしてね」

 そう口にする桑名に子供の頃の面影はなく、客間には線香の香りが濃く漂った。

20220722