僕の神様

 未練って嫌だ。
 思い出したくないのに夢に出てくる。その上現実世界の出来事は正反対の姿で。
 あんな男なんかに囚われたくないのに。
 断ち切りたいのに。──嫌でも蘇る。
 たまたま目にしてしまったメッセージアプリのやり取り。よりにもよって、同じ課の後輩と。
 興信所に頼んでみれば、次々に出て来る二人の生々しい浮気の証拠の数々。テーブルに並べられた無数の現場写真。真実を突きつけられても信じたくなかった。二人はどんな気持ちで私に接していたのか、顔を思い出すだけでも虫酸が走る。
 順風満帆な人生は泡沫の夢のように消えて──。

(──他のことを考えよう)

 すぐに思いついたのは桑名の顔だった。
 昔からそうだったけれど、不思議な子だ。
 一応まだ十代なのにずっと年上の男の人と話しているみたい。
 あれから毎日野菜と果物を届けてくるし。
 用が済んだらすぐ帰るし。
 まるで、未知との遭遇だ。

ちゃんは僕の神様だから』

 ──神様って何だろう。

「おはよう、ちゃん」

 長い夢を見ていた気がする。
 目を覚ますと布団の真横には桑名がいた。いつもの作業着ではなく、パーカー姿の普段着で分厚い小説を読んでいる。こうして見れば普通の十九歳の青年に見えなくもない──が何故ここにいるのだろう。
 あれから毎日顔を合わせる度にどんどん距離を詰められている気がする。
 外はザーザーと雨が降っていて、いつにも増して蛙がゲコゲコと大合唱を繰り広げている。暫く止みそうにない大荒れの天気。
 こんな日は一番気分が重く沈む。
 頭も痛くて、体が重い。桑名の存在を見なかったことにしてもぞもぞと布団の中に蹲る。

「魘されてたよ」
「……何でここにいるの……」
「おばさんが起こしてきてって。結局起きなかったから本読んでた」
「……次からは通報する……」
「昔はよくみんなと一緒にお風呂はいって、一緒に寝てたよね」
「昔は昔でしょ」

 ノーブラだし。
 ノーメイクだし。
 髪もボサボサのロングTシャツ姿。
 お隣さんで幼なじみとはいえ、祖母もよく家にあげたものだ。私から見れば子供だけれど、もう成人してると言うのに。布団を巻き込んで蓑虫のように丸く転がる。

「……笑ってるんでしょ」
「え?」
「結婚に失敗して田舎に逃げてきた私の事」
「え、そうだったの?」

 驚いたような桑名の声にむくりと起き上がる。

「……知ってたんじゃないの?」
「いや、何かあったんだろうなとは思ってたけど……それは大変だったねぇ」

 ──墓穴を掘ってしまった。
 口が軽そうな祖母も流石に私の事情は黙っていたらしい。わざわざ言わなくてもいい黒歴史を開けかしてしまった。
 加えて桑名のふわふわな言葉遣いに苛立つのに怒る気力も体力もない。ため息をついて起き上がり廊下に出た。

「……おばーちゃん……あれ?」

 家の中は忽然と人の気配がない。いつもは祖父母どちらかが必ず居るはずなのに。珍しい事もあるものだ。

「町内会の温泉旅行。言っておくけど不法侵入じゃないよ。ちゃんの面倒よろしくっておばさんに言付かってるからね」

 人選ミスだ──おばあちゃん。
 いくらお隣さんとはいえ、留守を預けるだなんて信頼しすぎではないだろうか。
 そもそも『面倒を見る』って何だろう。とっくに成人して一人暮らし歴は長いし大抵の事は自分でやれる。……とはいえ最近は食欲がなくて口に入れられるものは少なく、生きた屍のような生活になってしまったからこそ、ここにいるのだけれど。
 洗面所で着替えて顔を洗い、歯を磨く。なにか飲もうと台所に行くとそこには一人分の朝食が用意されていた。

「…………」

 祖父母の家に世話になる時、予め貯金から光熱費等の生活費を渡した。そして『自分の分の食事は何も用意しなくていい』と祖父母に伝えてある。それでも事あるごとに漬物や果実を渡されるけれど。
 そんなお願いをしたのは、こうして用意されても全て完食できる自信が無いから。
 満足にものを食べられない今の状況で、せっかくの食事を無駄にして、作った人を悲しませる事だけは出来ない。

「…………これ」
「びしそわーず」
「……桑名が作ったの?」
「そうだよ」

 料理教室に通っていた時に調理した経験がある料理だが、だいぶ手間がかかる料理だろう。
 隣家の掃除が行き届いた部屋に整えられた庭木。農業に料理──もしかして桑名は心配するまでもなく、なんでも出来てしまうのだろうか。
 隣の桑名から期待を込めた視線を向けられる。ここまでされたら食べるしかない。食卓に座り、恐る恐るスプーンを握って口に運んだ。

(……おいしい……)

 桑名手製のビシソワーズは野菜本来の味を強く感じた。素材の良さを生かした味付けで美味しい。明らかに自分で作ったものとは全く違う。桑名は私が食べる様子をにこにことしながら眺めている。

「ふふ。僕が作った野菜をちゃんが食べてる。夢みたい」

 もう男も女も懲り懲りで、人間に嫌気がさしてるのに、身内以外の──しかも年下の男が作った料理を食べている。しかも材料から調理まで手作りの。

「…東京の、どこの大学にいたの?」
「××大。その時にレストランでバイトしてたから、レシピ覚えたんだ」

 その分野に疎い私でも耳にした事がある、農学では有名な大学だ。幼い頃から大人達が舌を巻くほど頭の切れる子供だったので納得が行く。
 もし事故がなく桑名が東京にいたら。
 私が予定通り結婚していたら──桑名とどこかですれ違って居たかもしれない。
 恙無く事が進めば存在していたかもしれない未来。

(虚しいこと考えちゃったな)

 あんな男と結婚しなくて正解だった。
 周囲もそう言って励ましてくれた。けれど、あの時付けられた傷はなかなか塞がってくれない。

「僕ねぇ、小学一年生の時にここに引っ越してきて、しばらく近所の同年代の子たちにからかわれてたんだ」
「そう……だったの?」
「ほら、初詣の時。覚えてる?」

 中学生の頃だっただろうか。
 近場の神社に初詣に出掛けた時。偶然そこに桑名がいて、大人達が集まって談笑している間二人で様々な出店を回った記憶がある。

「僕は無視してたんだけどね。あの日ちゃんがいじめっこを諌めてくれてから、僕をからかう人は居なくなったんだ。きっと綺麗なちゃんに怒られて落ち込んだだろうね」

 昔の事を話す桑名は、まるで宝物を扱うように大事な記憶を打ち明けた。
 その年の正月は親戚が用意した晴れ着を着て初詣に行ったことを思い出したが、記憶が曖昧だ。
 ──本当に自分がそんな事をしたのだろうか。
 あの頃はまだ子供だったけれど、晴れ着を着たついでに化粧をしてくれたから、下の子から見れば多少は強そうに見えたのだろう。
 たったそれだけの出来事でここまでやるだろうか。

 ──♪

 微かに、自室から着信音が聞こえた。
 席を立って早足で台所から私の荷物がある和室へと向かう。充電器に繋がれ机の上に置かれたスマートフォン。そのディスプレイに表示された、見覚えのある番号に一瞬呼吸を忘れた。
 記憶がフラッシュバックする。
 その場に立ち尽くして、ただ鳴り響くだけのスマホを見つめて硬直する。

「…………っ」

 足元が、またグラグラする。
 腹の奥から濁った泥が溢れ出すような気分だ。胃液が逆流してしまいそうな気分の悪さが襲い、その場にしゃがみ込んだ。
 ──どうして、今更。
 せっかく忘れられそうだったのに。
 声も、顔も、思い出したくない。
 電源を切ってしまいたいのに身体が動かない。

 ふわりと、掌が耳に触れた。
 両耳を塞がれて、頭を誰かの胸板に押し付けられる。
 じめじめとした空気の中、知らない男の人の匂いが色濃く香る。
 桑名は私の背後に立ったまま私の耳を塞ぎ続けた。けたたましく鳴り響く自分の心臓の音が、次第に落ち着きを取り戻してゆく。
 それから一分後。
 着信音は鳴り止んで、ディスプレイが消えた。
 その場に座り込んでスマホを手に取り、画面を見ないまま電源を切る。真っ黒の画面に移るのは窶れきった情けない自分の顔。

「桑名」

 名前を呼ぶと、桑名はすぐ近くまで来てその場にしゃがんだ。
 まるで躾が行き届いた大型犬のようだった。

「……なに?」

 桑名のパーカーの襟元を掴んで思い切り引っ張る。桑名は『うわわ?!』と高い悲鳴をあげて体勢を崩した。
 そうして私と桑名は畳の上に崩れ落ちた。

「……今のといい、毎日の野菜といい。下心見え見えなんだけど」

 昔は可愛かった桑名も今は見る影もない。
 あいつと同じ──ただの男だ。
 どうせ、ここにいる理由もそういう事しか頭に無いのだろう。
 私を押し倒す体勢のまま、桑名は困ったように頭を搔く。

「うーん。……それはもちろん下心がないと言ったら嘘になるけど……」
「いいよ、別に。まわりくどい事しなくても」

 目を閉じれば、あの光景が嫌でも脳裏に蘇る。
 ──なんでもいいから早く忘れたい。
 この身体の細胞をすべて入れ替えるくらいに。
 あの男の存在ごと、この身体の中から消してしまいたい。

「はやく、して」

 媚びるように腕を首に回すと桑名の頬が赤く染まった。
 十九歳の男なんて盛りのついた犬みたいなモノだろうし、桑名が誰でもいいならそれでいい。若い桑名からしたら年増女で申し訳ないけれど下心を利用させてもらおう。
 降り止まない雨の音だけが響く和室。
 薄暗い室内に男女が二人。
 桑名の頬に手を添えて、唇を重ねようとしたその瞬間。
 厚い唇が微かに開いた。

「……ちゃん、僕じゃない人の事考えてるでしょ」

 図星をつかれて、伏せていた目を見開く。
 桑名の長い前髪の奥にきらきらと輝く何かが見えた。
 髪を掻き分けて顔を出したのは黄金の瞳。
 それはまるで暗闇に浮かぶ満月のようだった。
 濁流に飲まれるように、過去の記憶が蘇る。


 幼い頃桑名が周囲から遠ざけられていたのは、この特殊な金の瞳の色が原因だ。

 人とは違うこの目の色は突然変異によるもので、これが原因で実の親にも遠ざけられて田舎の祖父母と暮らすことになったのだと話していた事も。
 そんな大事な話を幼なじみの従兄妹たちの中で私にだけ打ち明けてくれた事も。


『みんな、ぼくの目を見てこわい、きもちわるいって言うんだ』

『僕だってみんなと同じ目が良かったのに』
『私はね、桑名の目、綺麗だと思うよ』
『いいよ。……ちゃんだって、本当はきもちわるいと思ってるんでしょ?』
『確かに、珍しい目の色だから驚いたけど、そんな事ないよ。きっと、桑名の瞳は神様に貰った目の色なんだね』


ちゃんはね、僕の神様だから』


 どうして、こんなに大事な事を忘れていたのだろう。
 私は何もかも忘れて桑名の瞳に釘付けになっていた。動揺する私を見下ろして瞳を細めながら、頬を撫でた。その手のひらの大きさについ胸の鼓動が高鳴る。

「そうだね。ちゃんがちゃんとご飯食べて、僕が作った野菜をいっぱい食べて、僕の事好きになってくれたら……そうさせてもらうね」

 桑名は肩に手を添えてゆっくりと私の身体を起こす。ずっと年下だというのに、まるで年長者のような振る舞いだ。私は畳の上に座り、呆然と桑名の顔を見つめた。

「……なにそれ。餌付けしてから食べるって事……?」

 そんなツッコミに桑名は口角を上げて微笑んだ。どうやら本当に、細胞を入れ替えさせられそうだ。


20220722