電子音が響いて、映し出された数字を表に書き込む。
「……少し下がったかな」
午後三時の体温は三十七度八分。
昨夜に比べればだいぶましになった方だ。
吹きすさぶ風の冷たい如月の昼下がり。
この本丸の審神者は今、自室の布団の上に横たわり眠っている。
普段より赤く色付いた頬、熱を持った呼吸。時折咳き込む苦しそうな声。それは二日前から続く発熱によるものだ。
常日頃から健康体である審神者が珍しく床に伏している。滅多にない出来事に本丸にはいつになく緊張感が漂っていた。
先日の任務では睡眠時間を削ってまで仕事に明け暮れていたので、そうした無理が祟ったのだろう。
古参であるへし切長谷部は心配で仕事も手に付かないようで、加州清光と大和守安定にいたっては元主の死因が死因だけに表情は暗い。何も重病と診断されたわけではないのだから、と宥める蜂須賀虎徹の声音もいつもの覇気が無かった。
主が病に伏したというその報せを聞いた時、人は脆いものだと再確認させられて、彼女の部屋を訪れるまで顔を見る事すら恐ろしくて仕方がなかった。『身を切られる思い』とはよく言ったものだ。今は医師の診察を受けて幸いにも快方に向かっている。
「まつい……」
掠れた名を呼ばれて、顔を窺うと主の瞼は閉じたままだった。体温を測った拍子に起こしてしまったのだろうか。
「そうだよ。大丈夫かい? 食欲はある?」
「わたしのこと……憎んでる?」
予想外の問い掛けに、僕は言葉を失った。
額に置かれた手ぬぐいを取ると、体温でぬるま湯のように熱せられていた。それを桶に張られた氷水に浸す。冷たい水に指を浸した時、自分もそうして造られた事を思い出した。
皮膚の感触、身を切られる痛み。心の傷み。
それらは刀であった頃には感じる事が出来なかったもの。
敵の肉体を切り裂いて血を流す感覚も、己の皮膚が裂けて血が流れる感覚も、体験してみれば『まだ足りない』と思えてしまう。
もっと、一滴でも多く血を流さなければという衝動に駆られている。それはぼくの本能なのだろう。
(憎む……か)
ぼんやりと考え込む僕の手に熱い手のひらが重なって、そのまま審神者の首元へと導かれた。
手のひらに収まるほどの、女の細い首。
「身体、熱いね……」
氷水に浸した指先が、彼女の体温でたちまち熱を取り戻してゆく。このまま、熱が下がらなかったら死んでしまうのだろう。
「いいよ。恨んでるなら……このまま死んだって」
熱に魘されて悪い夢でも見たのだろうか。
夢の中の僕は、いったい彼女に何を言ったのだろう。
手から伝わる脈動。この手の皮膚の下には頸動脈という血の管があり、斬れば大量の血が噴き出す事を知っている。
今この手に力を込めるだけでも、脳に血液が巡らなくなってたちまちのうちに死んでしまう。
人体の弱点とも言える場所を──僕の手に握らせている。
「……そう。あなたは、僕に息の根を止めて欲しいの?」
彼女は依然目を閉じたまま口を真一文字に結ぶ。
そんな主とは裏腹に僕は思わず口角が上がっていた。
そうさせたのは人の感情なのか、刀としての本能なのか。
刀剣男士の松井江はひとの形をしただけの刀だ。
持ち主に使われる事こそがこの上ない幸せで、主が死を選ぶと言うのなら使命を全うするまで。それが物の役割だ。
けれど、僕の心はそれを望まない。
「憎んでなんかいないよ、主」
「…………」
「僕を顕現した責任を感じる必要はないんだ。僕はね、同じ江仲間やかつて同じ場所にあったものたちに再び出逢えて、僕を大切にしてくれるあなたに出会えて幸せだから」
それを伝えると、彼女の瞼がゆっくりと開かれた。
無垢な黒眼がぼんやりと宙を仰いでいる。
僕の心の声は、彼女に届いているのだろうか。
もしかしたらまだ夢と現を彷徨っているのかもしれない。
こんなに近くにいるのに、主がずっと遠い場所に居るように感じた。
「守るって、約束したからね」
主の首筋をなぞって耳朶の皮膚を擦ると、身体がびくりと震えて強ばる。
「…………?」
長い睫毛をゆっくり擡げて、潤んだ彼女の瞳がようやく僕の姿を映した。