ピアスを開ける話

 まだ肌寒い、春のはじめの出来事。
 各国サーバーの審神者、刀剣男士、政府職員……老若男女犇めく万屋街の人混みの中。突如、誰かの叫び声が響いた。

「暴漢だ」

 その場にいた全員が声の出処に注視する中、同行していた松井江は私が振り向くよりも先に目の前に立ちはだかった。
 戦闘姿勢に構えて、己の本体の鍔に手をかける。視界は背の高い松井の背中に覆われて、事態の全容を把握する事は出来ない。
 行き交う人々の悲鳴、怒号。それからすぐに万屋街の警備員らしき声と共に現場に駆け付ける足音が聞こえる。暴漢と警備員が激しく争う声が聞こえて、思わず足が竦んでしまった。
 『暴漢』──引ったくりに失敗して暴行を奮い、無理矢理金品を奪おうとしていた男は、無事に取り押さえられた。騒然としていた万屋街は徐々に平穏を取り戻していった。
 近頃は戦況の悪化に伴って、万屋街は治安が良いとは言えなくなっていた。
 自らの本丸を放棄する審神者の話も、政府の良からぬ話を吹聴して不安を煽る元政府職員の噂もよく耳にする。通行人からは『最近多いな』といった声が溜息混じりにが聞こえた。

「こんな場面に遭遇するだなんて、災難だったね」

 松井はため息混じりに戦闘態勢を解くと、ロングジャケットを翻して襟元を直した。
 声を掛けられても何も言わない私を見て、松井は不安そうに様子を窺う。

「少し、血色が悪いね」
「…………」
「……そうだよね。あんな事があって、驚いてしまったよね。どこかで休んでいくかい?」

 優しい言葉をかけられても唇が震えて上手く言葉にできない。まだ心臓の音が大袈裟な程に鳴り響いている。自分の顔から血の気が引いているのが鏡を見なくても分かる。
 暴漢に驚いたのは事実だが、何よりも動揺したのは松井の行動だ。
 ──もしも、暴漢の狙いが私の方に向いていたら。
 松井は今のように何の躊躇なく私の前に立ちはだかり刀を抜いただろう。
 最高練度まで鍛えられた彼なら人間に負けるという事は無いが──それが例え、政府の想定を超える強大な敵や爆弾、兵器でも迷いなく私を庇うのだろう。
 その姿を想像して胸が締め付けられる。
 あの時松井が言ってくれた『守る』とは、こういう事なのだと痛感する。
 仲間のためなら自分はいくら血を流しても良いと思っている松井の考えだけは、私には到底理解できない。

?」
「ううん、もう大丈夫。……ありがとう」

 顔を上げると松井は澄んだ瞳を細めて、少し照れたように『どういたしまして』と返した。


◇◇◇◇


 それから季節は変わり、私がピアスを開けた日の翌日。休憩時間開始と同時に、松井はどこからか調達したピアッサーを持って執務室に現れた。
 息を切らして走ってきたらしい松井のその瞳はきらきらと輝いて、まるで晴れた日の海のようだと思った。

、僕にもぴあすを開けてくれないか」

 本日の近侍である桑名は松井と入れ替わるように畑の様子を見に行った。きっと気を使って二人きりにしてくれたのだろう。松井はなにか嬉しい発見でもしたかのように矢継ぎ早に話し立てる。

「昨夜、色々と本を読んで調べたんだ。装飾にも、開ける位置にも様々な意味を持つという事も。──だから、僕の左耳にぴあすを開けて欲しい」
「そうなの?」

 私が聞き返すと、松井はきょとんとした表情でその場に立ち尽くした。

「……僕に開けさせたのは……そういう意味ではなかったの?」
「ピアス付けたかったから松井にお願いしただけ」
「…………」

 どうやら松井は、なにか思い違いをしていたらしい。爛々としていた瞳の光は徐々に失われていき、落胆していく様子が窺える。
 私はそんな松井の様子に慌てて口を開いた。

「でも、誰でもよかったわけじゃないよ」
「……そ、ぅ…………」

 私の右耳の飾りを一瞥して、顔を赤くさせながら蚊の鳴くような声で呟く。滅多な事では動じない松井には珍しい表情だ。

「ごめんなさい。ちゃんと意味があったの?」

 理由を訪ねると松井は顔を上げて、咳払いをしながら口を開いた。

「僕が打たれるよりもずっと昔の西洋の騎士はね、右手に剣を持ち、左耳のピアスを愛する女性に見立てて誓いを立てていた。男性の左耳のピアスには『命を懸けて守る者』という証の意味、女性の右耳のピアスは『守られる者』という意味があるんだ」

 執務室奥にある審神者用の机まで歩み寄り、ピアッサーを私の手に預ける。目の前に跪いて、ロングジャケットがふわりと床に広がる。真っ直ぐに私を見上げるその姿は西洋の騎士のようだった。

「だから、僕に証をくれないか」

 真っ直ぐに私を見つめるその瞳は、すっかり輝きを取り戻していた。

「証……」

 まるで生きる意味を見つけたように活力に満ち溢れた松井に対して、私の表情は強ばっていた。
 脳裏に過ぎるのは、いつか万屋街で暴漢騒ぎに遭遇した時。捨て身で私の事を守ろうとしていた松井の後ろ姿だ。
 その時私は、まるで消耗品のように身を投じる彼の事が恐ろしくなった。
 元より人の役に立つ物として生み出された、戦の道具である松井にとっては正しい行動だったのかもしれない。
 審神者になって就任五周年を迎えた時、『あなたの事は僕が守るから』と言ってくれた時の事を思い出す。当時の私は、頼もしい松井の言葉を単純に受け取っていた。
 ──今はただ、複雑な心境だ。

(『命を懸けて私を守って』……なんて、松井に言いたくない……)

 これ以上、私のために傷付き血を流してほしくはない。
 刀剣男士の使命は歴史を守る事だ。
 本来審神者を守る必要なんてない。
 けれど松井はその言葉を望んで、私に与えられる証を願っている。
 私は唇を噛み締めて、松井のさらさらとした黒髪を耳にかけ左耳に触れた。

「じゃあ、約束して。『私』を身に付けるなら無闇に身をなげうつ事はしないで。松井が傷付いたら、私も傷付くと思って」

 松井は一瞬驚いたような表情を浮かべながら、海色の目を細めてゆっくりと頷いた。

 引き出しから昨日使用した残りの消毒液を取り出して松井の左耳に塗る。それから彼が用意したピアッサーを当てた。ぱちん、と音がして、その金属はしっかりと左耳に貫通した。

「あ」
「どうかした?」
「生存、減った……」

「…………あ」

20220809