ぼくのつみ

 本丸の母屋から庭を挟んだ場所にある離れは、僕達の聖域だ。普段賑やかな本丸とはまるで別世界の静寂に包まれている。耳をすませば、池へと流れる小川のせせらぎと、初夏の虫の音が聞こえる。夜半近く、行燈を灯して読書に耽っていると、もう聞き慣れた足音が響く。ガラリと戸を開けると、一人の女性が現れた。

「おかえり。今日は遅かったね」
「ただいま……」

 余程疲労が溜まっているのか、目が虚ろなままジャケットを脱ぐ。普段審神者は和装でいることが多いが、政府に呼ばれた場合は『すーつ』という洋装に身を包んでいる。僕は読んでいた本を閉じて向かい合うと、どちらともなく抱き締めあった。髪を撫でて、ぎゅっと身体を密着させる。とくんとくんと響く心臓の音も、呼吸の音も、心が落ち着く。まるで最初からこうして生まれてきたかのように。
 は今日、こんのすけと山姥切長義と共に政府に呼び出されていた。重要な任務のようで、この所はずっと本丸を近侍に任せて政府に居ることが多くなっていた。こうして二人だけの時間になるのも五日ぶりだ。

「お仕事がね、やっと一段落ついたの」
「そうか……。お疲れ様。僕も何か手伝えたら良かったのだけれど」
「ううん。松井が本丸を守ってくれるから、安心して外出できるの……」

 待ちきれなかったように唇を重ねながら、は僕の青いリボンに手をかけた。

「ふふ。我慢できないんだね?」
「うん……。ごめんね」
「謝ることはないよ」

 しゅるりとリボンを取り払いブラウスのボタンを外すと、待ちきれなかったように首筋に唇を寄せた。余裕のない彼女の息づかいが首に触れる。鋭い犬歯が肌に触れて、ぞくりと背筋が震えた。
 ぶつり。
 首の皮膚を破って赤い血がじわりと溢れ出す。

「──っ、」

 皮膚から流れる赤。
 それをぢゅうっと音を立てながら啜る。の細い喉の奥に流し込む音が聞こえると、罪悪感に押し潰されそうになる。

「……っ、やはり僕の血なんて、美味しいものではないだろう?」

 滴り落ちる赤い雫が、ブラウスの白を染めた。
 いつ見ても忌まわしい赤だ。のものとは違う。

「そんな事ない……美味しいよ。松井の血」

 そう言いながら、舌を使って一滴余さず飲み干そうとしている。まるで子猫の毛繕いのようで、愛らしかった。この光景を他の誰かに見られてしまったら、悍ましい光景だと言われるだろう。審神者が刀剣男士の血を啜るだなんて。前代未聞の大事件として扱われてしまうかもしれない。だからこうして、人目につかない場所で行為に及ぶのだ。
 今日のような静かな夜の、離れ部屋で。
 ──こくり。
 喉の音が聞こえて、僕の血が尊いの身体に吸収されてゆく。そう思うと罪悪感を抱きながらも、たまらなく興奮している自分がいた。が首筋から顔を離すと、じっと顔を凝視する。

「──また、鼻血出てるよ」

 微笑みながら指摘して、それさえも舐めとってしまった。

「……霊力は戻った?」
「うん。すっかり」
「それはよかった。……けれど、無理をしてはいけないよ」
「ごめんなさい。政府からの任務だから、断りきれなくて」

 は高い霊力値を買われて度々政府の研究に協力している。けれど政府は知らない。霊力を著しく消耗したとき、耐え難い渇きに襲われるようになった事を。自然回復では補いきれないほどの飢餓を感じてしまう。
 解決策は、僕の血を摂取すること。そうすれば速やかに霊力を回復することが出来た。これは同じ本丸の刀にも他言したことが無い、誰にも言えない二人だけの秘密だ。


◇◇◇


 と初めて想いが通じあった日のことはよく覚えている。ずっと触れてみたかった、血色の良い肌。やわらかな頬。彼女の全てを余すことなく愛でて、ぬくもりに包まれた。きっと、この時間の事を幸せと呼ぶのだろうと思った。
 僕はを慕っているけれど、刀である自分には彼女を幸せにする力はない。
 ──それは、ずっと自分に言い聞かせていた言葉だった。
 けれど、は僕を愛して、必要としてくれた。血に塗れた僕でも全てを受け入れてくれた。僕達は箍が外れたように互いを求めあった。僕の全てを捧げるように、何度も。
 そうして、片時も離れがたい存在になってしまった。
 全ての刀が僕との関係を歓迎してくれる訳ではなかった。が育てた行儀のいい刀だ。あからさまな敵意を向けてくる事は無いが、あまり好ましく思われてはいない空気は感じ取っていた。
 当然の事だと思う。この本丸の長たる審神者と僕では祝福されない事くらいわかっていた。彼女を守るには、神刀や邪を払い除ける霊刀が相応しい事も。

「ぬしさまは悲しい顔ばかりしておられましたが、近頃は穏やかなお顔をされている。それはきっと、松井殿のおかげでしょうな」

 小狐丸が庭の池に餌を撒くと、色鮮やかな錦鯉が群がる。普段は池の中で優雅に泳ぐ錦鯉が、激しい水飛沫をあげて餌を得ていた。
 僕よりもずっと前から本丸には在って、を慕っている。僕から見れば羨ましい存在だった。彼女の限られた寿命の中で、長い時を過ごしているのだから。
 小狐丸の言う通り、以前のは悲しい顔ばかりしていた。終わりの見えない長引く戦に心を痛めていた。あの時のは今にも壊れてしまいそうな、薄い玻璃の器に似ていた。
 想いが通じあった今では笑顔をよく見るようになった。血に塗れた僕が、彼女の隣にいても許されるのだろうか。ふと気付けばそんな事を考えてしまうのだ。
 目に見えて変化が起きたのは一ヶ月後の事だった。彼女の美しい射干玉の眼が、青に染まり始めていた。それは他の誰でもない、僕の仕業だ。
 僕と交わった事で良くない影響を及ぼしているのではないか。すぐに受けさせた健康診断の結果は、拍子抜けするほど何も問題がなかった。それどころか、審神者には無くてはならない霊力値が以前より増した上に、健康状態・精神面は良好という結果だった。

「心配しすぎだよ」
「けれど、」
「お医者様のお墨付きなのに」

 は心配する僕を宥めた。
「責任を感じる必要なんてない。これは私が望んだ事だもの」
 彼女の青みがかった瞳には、僕の不安そうな表情が映っていた。
 それからしばらくして、の瞳はすっかり青く染まってしまった。あってはいけないことだとはわかっているのに、の瞳を見ると彼女が自分だけのものになった証のように思えてしまうのだ。
 二週間の遠征任務から帰還したある日、執務室を尋ねると部屋の中に、血の匂いが立ち込めていた。万が一の時に備えて腰元の刀を握りながら執務室を見回した。何も異常は無かった。不自然に腕を隠そうとする以外は。



 びくっと肩を震わせた。まるで叱られることを予感している子供のように、目を泳がせている。嫌な予感は的中してしまったらしい。
 審神者の仕事着である白の着物に、赤黒い血の染みが付着している。腕から指につうっと赤い雫が滴り落ちた。

「見せて」

 は躊躇いながら、恐る恐る左手を差し出した。
 彼女の腕には明らかな噛み跡が存在していた。まるで獣にやられたような、鋭利な牙の痕。誰かにやられたのか、と想像した瞬間憎悪が込み上げる。牙を持つ刀剣男士は自分の他にも複数存在している。

「自分でやったの」
「……貴女が……?」

 しかし、この噛み痕は明らかに人間の仕業ではない。動揺する僕を見ては僕の手を自らの口元に導いた。唇を割って、口内に入り込ませる。歯列の中に突起物が存在していた。
 それは、自分と同じ牙だった。
 今まで存在していなかった牙が、急に生えてしまった。俄に信じ難いが、紛れもない現実だった。その牙で自らの身体を傷付けていた、ということだろう。

「……これも、僕のせいなんだね」

 はお揃いの青い瞳に涙をじわりと滲ませながら、左右に振った。僕が遠征任務で留守にしている間、不安だっただろう。自分の身に起きた変化を誰にも相談出来ないでいたのだ。

「血を流させてしまうなんて、僕は、貴女の刀失格だね」
「違うの。松井は悪くない。私は血が欲しくて、」

 は言いかけて、はっとしたように口を噤んだ。どうやら姿かたちが似通うだけではなく、自分の性質もに移ってしまったらしい。それは、ずっと危惧していた事だった。これでもう、後戻りは出来ない。
 腕の傷口から溢れるの血をハンカチで止血した。の腕に二度と傷が付かないよう願掛けをしながら。

「それなら、僕の血を飲んで」
「松井の……?」
「忘れたの? 血を流し、流されるのが僕の業だから」
「……でも」
「この血を貴女に捧げられるのなら、僕は幸せだよ」


◇◇◇


「──松井も、怪我をした時は私の血を飲めばいいのに。そうすれば手入れなんていらないでしょう?」
 は口元に付いた血を拭いながら提案した。
「何度も言うけれど、僕は、貴女を傷付けるような事はしたくないんだ」

 の手によって顕現された刀剣男士だ。彼女の血を取り込めば、治癒能力が発揮される可能性は高い。それが、他の刀剣男士に知れたらと思うと気が気ではない。
 彼女の血を他の誰かに流させるなんて。それが例え仲間であっても考えただけで嫉妬で狂いそうなのに。こんな僕の本性を知ったら、嫌われてしまうだろうか。

「なんだか不公平じゃない?」
「貴女は僕に血肉を与えてくれたから、僕は血を捧げる。不公平ではないよ」
「……私の血は不味そう?」
「そんなことはないよ。可愛すぎて、食べてしまいたくなってしまうけれど」

 髪を撫でると、むくれていた顔はみるみる赤く染っていった。

「ふふ。赤く染まったね」
「松井が恥ずかしい事言うからだよ」
「不愉快?」
「……そうじゃないけど」

 僕の胸に顔を埋めて、隠してしまった。

「大好きだよ、松井」

 ブラウスのぎゅっと掴みながらそう口にした。『僕もだよ』と言えたならきっと楽なのに。

「──貴女を鬼に変えてしまった、こんな僕でも?」

 口から出たそれは、まるで懺悔のような質問だった。はゆっくりと顔を上げて、神妙な顔付きの僕の表情を大袈裟だと言わんばかりに微笑んだ。
 は僕との交わりによって、人間ではなくなってしまった。
 人でもなく、神でもない不確かな存在。
 恐らく鬼や妖に近いのかもしれない。
 西洋の妖には人の生き血を啜る『吸血鬼』と呼ばれる伝説上の鬼が存在したらしい。きっと、それが最も近い存在と言えるのだろう。
 僕が愛したせいで、から人としての生を奪ってしまった。を殺したも同然の罪人が行き着く先はいったい何処なのだろうか。きっと地獄でも天国でもない。
 それでもが一緒なら、なにも怖くはない。

20200830