八仙花

 すっきりとしない空だ。梅雨の晴れ間はすぐ雲に覆われ、明日からまた雨が降り続くらしい。昼食後軽い散歩の為に本丸の庭先に出ると、紫陽花の前に足が止まった。瑞々しく咲く鞠のような花は、青や白、紫に薄桃色。まるで水彩絵具で描かれたような淡い色合いが美しい。とくに紫は五月雨江、薄桃色は村雲江の二人を髣髴とさせる。
 ──それから、またあの言葉が甦った。

『頭こそが季語。それだけです』

 先日の就任記念の挨拶で告げられた五月雨の一言が、ずっと心に残っている。目を閉じれば、五月雨の姿が瞼の裏に映る。いつもよりかしこまった態度で、印象的な切れ長の目元から覗く紫水晶の瞳を真正面に向けて私にそう告げた。
 私が季語とは──。
 江のものは不思議な性格をした刀が多いが、五月雨江は忍と言うだけあって一際謎を秘めている。最早どこをどう突っ込んで良いのかわからない。
 それは本丸でも、どこからともなく現れたと思えばいつの間にか居なくなっている霞のような存在。けれども私が五月雨に用がある時は瞬時に駆けつけてくれて、頼もしくもある。まさに忠犬の働きぶりだ。自らを『犬』と呼ぶ時は距離を置かれたようで少し寂しくもあるけれど。
 桑名にそれとなく『五月雨にとって季語ってなんだろう』と聞けば、野菜も季語だと言っているらしい。俳句における、移ろう四季をあらわす言葉。万物全ては季語。つまりは野菜と同じなのだ。
 そういう事にしておこう。
 どうも勘違いしてしまいそうになって、いけない。本音を言えば、五月雨の態度に期待してしまった自分がいる。あの真剣な眼差しと含みのある声を思い起こす度に、胸が疼いて仕方ない。例え私が五月雨に懸想していたとしても、五月雨は私を『頭』として見ているだけだというのに。
 ため息混じりに視線を下げると、紫陽花の根元でガサガサと何かが蠢いた。
 土竜か鼠くらいの大きさだろうか。
 しかしそれは、私の右手目掛けて牙を向いた。
 その正体は蛇だった。胴体は太く、長さは私の身長ほどもある大きな蛇が右手に咬みついている。

「頭!」

 背後から私を呼ぶ声がする。
 駆けつけたのは五月雨だった。追い払うよりも先に蛇は右手から口を離して、再び草むらへと消えた。

「咬まれたのですね」

 すっかり気が動転して、五月雨の顔を見つめて頷く事しか出来ない。その間にも小指の付け根に刻まれた咬みあとからつうっと血が流れる。
 まるで心臓が右手に移動したかのようにどくどくと脈打った。五月雨は身につけていた襟巻きを私の右腕に巻き付けた。それから、傷口に唇を付けると血を吸い始めた。突然の行動にぎょっとしたが、毒を抜こうとしてくれていると理解して、ますます顔が青ざめていった。

「さみだれ、だめ」

 もし毒蛇であれば、五月雨まで毒を摂取してしまう事になってしまう。顔を引き離そうと伸ばした左手は掴まれてしまった。

「私は平気です。毒には慣れています」
「な、慣れてるって……っ、う……っ!」

 そう言って五月雨は眉ひとつ動かすことなく、また傷口に吸いつく。痛みと羞恥心が同時に襲う。

「………ッ…」
「すみません。我慢してください」

 何度も血を絞り出してから、懐から小さな小瓶を取り出した。草と酒が混じった独特な匂いが漂う液体を塗布する。これが以前言っていた『秘薬』だろうか。呆然としている間に、今度は身体ごと抱えられた。

「とりあえず医務室へ行きましょう」
「大丈夫だよ、一人でも歩ける」

「万が一のためです。なるべく動かないでください」

  五月雨は有無を言わさず、医務室がある棟へと急いだ。

「咬んだのはどのような蛇でしたか」

 私を抱えて、走りながら問う。
 一瞬の出来事だったから、はっきりと覚えているわけではない。

「わからない、緑色っぽい……の、かな」
「アオダイショウならば無毒です。三角頭や目立つ模様であれば、毒蛇の可能性が高いですが。この本丸に危険な蛇はまず居ないでしょう」

 記憶を呼び起こすと、大きく口を開けた蛇の映像が脳裏に過ぎって、背筋が凍る。
 毒だったらどうしよう、という不安がじわじわと襲ってくる。不安とともに毒が身体に侵食していくような気さえした。

「大丈夫です。頭は死なせません」

 相変わらず抑揚のない五月雨の言葉が、力強く響いた。
 心臓が高鳴るのは咬まれた傷のせいだろうか。
 それにしても、決して軽いとは言えない体重なのに、私を抱えて走る五月雨の姿勢はぶれない。私の身体を揺らさようにしてくれているのだろう。こうして密着してみると、五月雨の身体付きが思いの外逞しい事に気付く。そんな事を意識している場合ではないのに。

◇◇◇

「災難だったなあ大将」
 転送ゲートで迎えてくれたのは薬研藤四郎だった。
 本丸はとっぷりと日が暮れて、厨から夕食の匂いが漂っている。あれから、医務室へと向かった後刀達の強い奨めで政府の医療機関を受診した。結果的に毒蛇によるものではなかったので安心したが、右手には大袈裟なまでの包帯が巻かれることとなった。
 廊下を歩いている途中、どこからともなく五月雨が現れ、手に持っていた小箱を取り出した。そこにしまわれていたのは薄い皮のようなもの。細長いそれは二メートル近い長さを持つ。

「蛇の抜け殻がありました。脱皮したばかりで気が立っていたのでしょう。今度見かけたら懲らしめておきます」
「マムシ酒でも作んのか?」
「いえ。殺生はしませんが、遥か遠くの地に旅してもらうだけです」

 淡々と喋る五月雨に薬研はくつくつと面白そうに笑っている。遥か遠くの地とはいったいどこに連れていく気だろう。

「そういや秘薬に何入ってんだ?」
「秘密です。秘薬ですから」
「なんだ、つれないなァ」

 きっぱりと断られた薬研は悔しそうだ。
 翌日の朝。
 外はしとしとと長雨が降り続き、しっとりとした空気に満ちている。庭の紫陽花も雨に打たれて花や葉が小さく揺れていた。
 審神者の私室に訪れた五月雨は、傷の予後を見に来た。腫れるものかと思いきや、それ程腫れず熱も出ない。これも秘薬の効能なのだろうか。
 今五月雨が手にしているのは秘薬ではなく医師が処方してくれた薬だが、やはり薬研のように秘薬の中身が気になってしまうのだった。

「……五月雨は、すごいね」

 器用に包帯を巻き直す五月雨は顔を上げた。

「秘薬も作れちゃうし、処置も素早いし。私ったらただぼんやりしていただけで、何も出来なかった」
「最小限の手間で暗殺する為の、副産物のようなものですよ」

 五月雨は自嘲気味に答えた。治療薬を作れるということは、恐らく毒薬も作れてしまうのだろう。咄嗟の応急処置が素早かったのも人間の急所も知り尽くしているからこその手際の良さなのだ。
 そうして、あっという間に右手の包帯は巻き直された。医療機関での処置とそう変わりない見映えだ。自分ではこれ程上手くは巻けなかっただろう。

「私がすぐに駆けつけられたのはただ、頭のそばに居たからです」
「そうだったの?」
「もっと早く蛇に気が付けば良かったのですが」

 庭を散策して紫陽花を眺めている間、五月雨の気配は全く感じなかった。さすが偵察が最も得意だと自称するだけの事はある。対時間遡行軍の結界が施された本丸で偵察の必要性は感じられないが。

「すぐ処置してくれただけで充分だよ。というか、近くにいたなら声掛けてくれても良かったのに」
「いえ、良い季語だったので……。いい句が浮かびそうだと」
「良い季語って何?」
「季語は季語です」

 私の問いにきっぱりと返すが、答える気はさらさらないと言っているように聞こえる。
 自力で解釈をしろという事なのだろうが。こういう時、雅な歌に造詣が深いわけでもない私は、答えをぼかすことにほんの少し『ずるい』と思えてしまう。五月雨らしいといえばらしいけれど。

「私も頭にお伺いしたいことがあります。──あの時、誰を思い浮かべていたのですか?」
「…………?」
「花を愛でながら、微笑んでいるかと思えば物憂げな顔をしていたので。……すみません。野暮な質問でした」

 言葉の途中で言い淀むと、気まずそうに顔を背けた。珍しい表情だ──と思いつつ、自分が無意識にそんな顔をしていたという事に驚いていた。遠くから見てもわかってしまう程に顔に出やすいのだろうか。そして一部始終を五月雨に観察されていたかと思うとなんだか気恥かしい。
 あの時、誰を思い浮かべていたか──。
 その答えは、目の前に居る。……とはいえ、素直に答えるのも癪なので少し意地悪をしてみる事にした。

「季語の意味教えてくれたら、教えてあげる」

 反撃された五月雨はわずかに眉を顰めて、悔しそうな顔を浮かべる。昨日今日と、五月雨の珍しい表情を見られるのでなんだか楽しくなってきた。
 好奇の眼差しを向けられた五月雨は仕方ないとばかりに口を開く。

「俳句には、『無季自由律』というものもありますが、基本的に季語がなければ成立しません。なくてはならない大切なものです」

 あの時。就任記念の挨拶の時と同じ真剣な眼差しでじっと見つめられ、思わず呼吸が止まりそうになる。

「なくてはならない……」
「ええ。私がこうして歌を詠めるうちは、大事に愛でていきたいものですね」

 そう答えると五月雨はにこりと笑った。
 普段寡黙で涼やかな顔立ちの五月雨からは想像し難い、慈愛に満ちたやわらかな微笑みだった。

「では、お聞かせください。さんが想う季語の名を」


20210606