鶴丸と夏祭りに行く話

 入道雲が朱く色付く空の下。蜩の鳴き声が響く本丸の一室で、チリンと鐘の音が響く。白一色に藤が描かれた軽装に身を包んだ鶴丸国永は、厨の暖簾をめくると燭台切光忠と歌仙兼定の背に声を掛けた。

「じゃあ歌仙に光坊、行ってくる」
「え? 鶴さん」
「今日は俺の分の夕餉はいらんからな」

 燭台切光忠が行き先を尋ねるよりも前に、既に鶴丸国永の姿はなく、隣に居た歌仙兼定と顔を見合わせる。その姿はまるで夏休みに遊びに行く人間の子供のようだ。
 歌仙兼定の視界に厨の勝手口に置かれた籠が見える。桑名江が今朝収穫したばかりのみずみずしい茄子と胡瓜 、それから赤茄子を眺め見た。その時ふと、彼の行き先を察した。

「毎年恒例のあれか」
「──ああ。そんな時期だね……」

 厨の壁に貼られたカレンダーには、様々な筆跡で八月の予定が書き込まれている。

「よ、」

 とっぷりと日が暮れ、いつもは閑散としている神社には浴衣姿の老若男女が行き交う賑やかな人混みに溢れていた。提灯に照らされた神社の社号標前。いつもの待ち合わせ場所には、白と薄桃色の菊が描かれた艶やかな浴衣姿の彼女が佇んでいる。顔を上げて鶴丸国永の姿を見付けると、紅く色付いた唇が弧を描いて、どこか気恥しそうに頬を染めた。その姿が愛おしくて思わず顔が緩みそうになるのを堪えた。

「鶴丸。久しぶり」
「元気にしてたか? ……なんてな。相変わらずだな、きみは」

 鶴丸国永は黄金の瞳を細めて、精一杯の笑顔を浮かべた。『相変わらず』とは言ったが、髪を結い上げて化粧をした彼女の姿は、審神者だった頃とは雰囲気がまるで違う。きっと戦場に身を置かなければ、着飾ることを楽しむ普通の女性として生きられたのだろうと思うと、複雑な気分になってしまう。

「ふふ、まあね。鶴丸はどう? みんな元気?」

 彼女は鶴丸国永を顕現させた審神者だ。
 審神者を引退した今は『元主』という事になる。
 今は戦場とは無縁の場所に居るが、年に一度のこの時期にだけ、許しを得てこうして顔を合わせている。

「ああ。元気だ。あのちびも今はすっかり立派な審神者の顔だ」
「そっか、良かった」

 鶴丸の言葉に彼女は目を伏せて、安堵した表情を見せた。
 それから、二人で屋台がずらりと並んだ参道を歩く。盆踊りの太鼓の音、屋台から漂ってくる匂いと、人々の熱気。
 この神社には彼女がまだ現役の審神者だった頃に一度だけ訪れた事がある。遠い昔の思い出だ。今は立場こそ変わってしまったが、あの頃と景色は変わらない。青いビニールの、狭い水槽の中を泳ぐ赤と黒の金魚の群れを眺めた。

「しかし、若いというのになかなかの堅物でなぁ。驚きが足りないのなんのって」
「あの子真面目なんだから、あんまり困らせちゃだめだよ」
「いや〜? もう少し柔軟になっても」
「つるまる」
「……わかったよ」

 彼女が立ち上げた本丸を継いで取り仕切っているのは、遠い親戚にあたる生真面目な青年だ。燭台切光忠曰く、『きっと鶴さんの背中を見て育ったから反面教師になったんだと思うよ』と言われる程に堅物に育ってしまったが、根は優しく本丸の皆に信頼を得ている。優秀だった前任の審神者を尊敬し、日々努力している姿を伝えると彼女は安心したような表情を浮かべる。その顔はまるで子を持つ母親のようだった。

「俺が責任を持って育てる。そう約束したからな」

 刀剣男士が私的な理由で審神者ではない人間に逢うのは本来許されない行為だ。
 今の主に許可を得ている。──とは言っても実際はぼかして伝えているので『彼女に逢う』とははっきりと言っていない。勘のいい主の事だ。もしかしたら既にわかっているのかもしれないが。

「ものずきだよね。もう審神者じゃないのにこうして毎年逢ってくれるなんて」
「嫌か?」
「嫌とは言ってないけど……なんていうか、ね」

 そう言って、申し訳なさそうに顔を逸らした。
 彼女が審神者を辞める時、刀剣男士を辞めても良いと思えた。
 『同じ所には行けない』と拒絶したのは他でもない彼女本人で、鶴丸国永の一世一代の告白は、敗北に喫したのだ。しかし、彼女が本丸から姿を消しても諦める事は出来なかった。だからこうして、毎年顔を合わせては、夏祭りや花火大会に紛れて、二人だけの時間を楽しむという我儘に付き合わせている。
 主を転じるのは刀の運命。
 今は今の主を支えるのが役目だ。
 ──けれど。

「自分で言うのもなんだが、俺は未練がましい男でな」

 鶴丸国永は彼女の手を取ると、目の前で固く繋いだ。

「だから、いつか折れるまで。何度でもこうして俺に逢ってくれないか?」

 提灯の明かりに照らされた真剣な金の双眸に、彼女は少し呆れたように微笑んだ。

◇ ◇ ◇

「──おい」

 声を掛けられて五虎退は顔を上げると、そこには大倶利伽羅が目の前に立ちはだかっていた。思いがけない人物からの呼び掛けに、驚きのあまり声をあげて体育座りのまま仰け反った。

「あ、え、……お、大倶利伽羅さん!?」
「いつまでも食事を取らないから、あんたの兄が心配していた」

 自室に引きこもってから、いったい何時間が経っただろう。いつの間にか陽が傾いていて、誰とも顔を合わさないまま、瞬く間に一日が終わろうとしていた。
 兄に心配をかけてしまった──。そんな自分が情けなくなり、また目から熱いものが込み上げる。

「……すみませ、でも、……っ」

 緩んだ涙腺は歯止めがきかず、ボロボロと零れ落ちた涙は畳に染み込んだ。

「鶴さん……、のこと、が……」

 ──鶴丸国永が折れたのは、一昨日の事だった。
 物陰に潜んでいた時間遡行軍の残党に不意をつかれて致命傷を負い、そのまま砕け散って逝った。同じ部隊にいた五虎退も重傷を負い、鶴丸国永が壊れゆく様子をただ見ていることしか出来なかった。
 長らく本丸に在った古株の、あまりにあっけない最期に皆が悲しんでいた。
 鶴丸国永は今の審神者の父親変わりのような存在だった。子供のような好奇心を持ち、いつも誰かを笑わせ、時にはこの本丸の大黒柱のような、無くてはならない存在。そんな刀が居なくなる喪失感は大きなものだ。
 五虎退の部屋を訪れた大倶利伽羅は古くからの馴染みで、近い存在だというのに落ち込む素振りは見せなかった。いつものような無表情で五虎退を見下ろすと、閉じられていた部屋の扉を開け放った。

「来い」

 大倶利伽羅に促されて、五虎退は戸惑いながら立ち上がり、その後を追う。いつもより静かな本丸の廊下に二人分の足音が響く。大倶利伽羅は風呂敷包みの荷物を手にしていた。それがいったい何なのか気になりつつも質問出来ずに、ただ大倶利伽羅の背中に着いてゆく。
 玄関を出て、本丸の門をくぐり抜け、まだ冬の名残が色濃い薄曇りの空の下ただひたすらに裏山へと向かった。

「あいつは年に一度、夏の夜にどこかへ行っていた」

 徐に口を開いたのは大倶利伽羅だった。
 彼の話に耳を傾けながら、白い息を吐いて山道を登ってゆく。

「そ……そういえば、そうでしたね……」
「根拠はないが、前の主に逢っていたんだろうと思う」
「前の主さまにですか……? でも、ええと……」

 大倶利伽羅の思わぬ言葉に五虎退は目を泳がせた。

「ずいぶん前に大往生で……。亡くなる直前に今の主様に譲られました、よね……?」

 二人が辿り着いた丘の上には桜の大木が聳え立っていた。まだ蕾もない枝は物悲しく寒々しい。
 大木の前で風呂敷包みを解くと、大倶利伽羅は白一色の絹織物に包まれた木製の位牌を取りだした。形を見れば位牌や霊璽に見えるが、よく見れば戒名もなく形は不格好で、どうやら素人の手作りのようだ。かなり年季が入ったもので角は丸くなっている。恐らく作られてから五十年以上は経過しているだろう。
 仄かに抹香の匂いが漂い、五虎退の脳裏には鶴丸国永の姿が過った。

「……それは、もしかして……」

 役目を終えた審神者の所持品は塵一つ残らず処分されるはずで、前任の主のものがこの本丸にあるはずがない。審神者は死後、遺体はすみやかに政府に引き取られ、共同墓地に合葬されると決まっている。時間遡行軍に歴史を改竄されないために、全ての審神者の個人情報は政府によって厳重に秘匿されている。そういった理由から、個人に位牌など用意されるはずがないのだ。

「どうせ、勝手に作ったものだろう」

 木の根元に荷をおろし、持ち込んだ道具で黙々と土を掘り続ける大倶利伽羅を眺めながら、五虎退は折れる前の鶴丸国永の姿を思い出していた。
 前任の審神者と鶴丸国永は非常に仲が良く、傍目から見ても夫婦のようだった。実際はどんな関係だったのかはわからない。その関係に名前などなくても信頼しあっていればそれで十分のようにも見えた。
 そして、鶴丸国永はある日を境に香りが変わった。
 今思えば、あれは樒 の香りだったのだ。
 鶴丸国永は誰も知らない場所で、自作した位牌に手を合わせて彼女を供養していたのだろう。そうして八月の盆には、帰ってきた恋人と逢っていたのかもしれない。そうであって欲しいと思った。

「大倶利伽羅さんの言う通り、きっと逢ってたんですね、鶴さん」
「…………」

 泣き腫らした瞳を細めて笑顔を浮かべる五虎退の隣で、大倶利伽羅は樒香の匂いが染み付いた位牌を握りしめた。
 その存在を打ち明けられたのは、つい先日の事だ。
 またろくでもない『驚き』とやらに付き合わされるのかと思いきや、やけに真面目な顔付きで自室へと招かれて、箪笥の中から桐箱を取り出した。蓋を開けて、絹織物に包まれ大事に仕舞われた物を見せた。

『これはただの未練だ。俺が折れたら誰にも見つからない場所に埋めてくれ』

 そう告げただけで、肝心の中身については一言も口にしなかった。その扱いを見れば、鶴丸国永にとって余程貴重な物のように見えた。大倶利伽羅の脳裏にはふと、前の主の顔が蘇った。きっと彼女にまつわるものだろう。そんな予感がした。
 前任の審神者が眠るようにこの世を去ったのは冬の終わりの事だった。鶴丸国永に遺言を託されたあの日は審神者の命日だったのだ。

「…………ふっ。刀が、人間の弔いか」

 大倶利伽羅は呟くと、小さく肩を震わせた。
 深く掘った土の中に樒の枝葉を敷きつめた。花も実も枝葉も強い毒性と香気を持つ樒は、獣が墓を荒らすのを防ぎ、死者を邪気から護ると人間に信じられてきた植物だ。位牌の隣に小さくなった鶴丸国永の欠片を添えると、五虎退は静かに手を合わせた。人間の真似事も悪くはない。

「もう誰も暴かない。だから……せいぜいゆっくり寝ていろ」

 そうして、木の下には二人だけの秘密が埋められた。

20210725